風景とイメージ

はじめに
 風景の知覚によって風景はイメージとして認識され、記憶される。しかし、環境を知覚する中から風景として認識するのは、風景のイメージが予め意識されているからということである。知覚は主体と外界の交流過程の断面であり、主体における外界の意識化と外界を意識化することによって、外界を主体にとっての環境として利用し、また、環境に適応する主体を見出そうとすることであるといえる。眺望によって広い外界を視野に納めるときの知覚を風景とし、外界を環境としたとき、風景は哲学者が言ったように、環境の全体的知覚と言う事ができるだろう。
 主体が外界に対して、主体性として個性的であるか、没個性的であるかによって、風景を自由に見出すか、固定的な風景を受け入れるかの相違が生まれる。風景を外界の存在すなわち場所として言えば、視点と視線と対象との関係が成立する場所を特定するか、特定しないかの相違である。特定されない外界を風景として見出すのは、風景に対する自由で多様ななイメージを意識するからであり、特定された外界を風景とするのは風景の固定的なイメージが意識されているからである。自由な風景のイメージには固定的なイメージも包含されるが、自由なイメージは固定的であること自体を否定している。

風景の成長
 風景は変化する。風景が生活環境を対象としている限り、生活主体の活動は環境を成長させるように意識が働くであろうとするのが、柳田国男である。柳田は農村風景において「風景の成長」を見出した。(武蔵野)

イメージの固定化
 風景を固定的イメージでとらえると、風景の定義が容易である。また、典型的な風景は観光対象として利用される。(嵐山)、風景をイメージの外化によって固定化して創造することができる。(風景式庭園

風景の可塑性
 主体の問題(社会関係)場面構造、外界の問題(社会と自然)場所の変動