水面の風景

はじめに
 水面の上下で呼吸ができるか、できなかが分かれる。小さなころ、二度溺れかけたことを覚えている。一度は沼地の池で、一度は海岸で深みに足を取られ、あるいは掬われて人知れず死ぬところであった。とっさに泳ぐことが思い浮かばなかった。泳ぐことは、水面に浮かなくてはならないが、浮くことが得意ではなく、水に顔を突っ込むのもいやなことだった。魚の棲む水の中は神秘的な世界で水の上から水中を覗き込むか、ざるで魚を掬った時に、銀のうろこをばたばたさせる小魚の群れを捕らえた時は、宝物をえたかのようであった。しかし、浦島太郎のおとぎばなしは、神秘の竜宮城で幸せな暮しをしながら、最後に白髪となる怪談でもあった。自然の神秘が人間の死と結びついた世界が水中と水上を分ける水面にあった。
 雨滴が頬を濡らし、顔を伝うとき、水は粘性をもっている。水中に足を取られてその粘性を強く感じた。液体の粘性によって油と水が分かれる。粘性を感じないさらさらした水、透明な水は、水面を日光にきらめかせて、蔭には水中をのぞき見て、清らかさがある。しかし、風が収まった時、水面は一様に輝き、とろりと光る水面は小さな壷の中でも粘性があり、底しれない深さを感じさせる。小泉八雲の小説に壷の中の話がある。飲む水が人を呑んでしまう話である。
 水の物性の不思議さに日常触れている。しかし、それが海岸に達して大海を見たとき、水平線とともに地球の広がりとなる。一方、呼吸する大気と天空との関係はもっと日常そのものである。

阿寒湖
 海の広がりに接する海岸が陸地との境界である。島は陸地を離れ、水面に囲まれた陸地である。これに対して、湖は陸地に囲まれた水面である。湖は陸地の中で類まれな場所である。しかし、湖は小さな壷の中の水面から海の広がりまで連続する水の溜まる風景なのである。山の中の森に囲まれた湖は、神秘的である。しかし、そんな神秘の湖はめったに見られない。かっての十和田湖は神秘的だったと言われ、神社によって護られていたと言われるが、明治になって伐採がされたということであある。奥入瀬の森林が湖岸を覆っていたことを想像すると神秘そのもので、神域に相応しかっただろう。摩周湖は透明度の高さで著名であるが、一度だけ上から眺めただけなので、その神秘性を経験したことはない。
 学生の頃、北海道を旅して友人と二人、嵐の夜に阿寒湖にたどり着いたことがある。その頃には阿寒湖はマリモで有名な観光地であった。暗い夜の豪雨の中でバスの着いた観光地は、金を持たない旅人にはあまりにも無情であった。テント場を尋ねた家で、同情され一宿の上、食事まで頂くことになってしまった。前夜、泊めてもらったオホーツク海岸のサケ漁の番屋で、漁師の人たちに酒の仲間に加えてもらって、阿寒湖に行って困ったら、阿寒湖の漁業長の家を紹介してもらっていたのだが、そこを訪ねることになってしまったのである。
 翌日の朝、湖で養殖していたマスの成長を見に行くので一緒に行かないかとそのご主人から誘われた。遠慮しながら、一宿の返礼もできないのに、その誘いに甘えてしまった。誰も行くことない阿寒湖の奥の湖、ペンケトウかパンケトウに行くと言うのに抗し切れなかったせいでもある。刺し網にかかった紅鱒を漁業長はたちまち刺身にして食べさせてくれた。そして、翌日も同じ湖に出かけたのである。友人とボートを漕いで、何の物音も無い湖を回っていて、森に囲まれた深い淵で風がなく、水面は恐ろしい威力を見せたのである。広い水面が波に分けられることも無く油の表面のような粘性を帯びて一面に緩やかに光っていたのである。友人と声もなく、しばらく動きがとれないままの時間が過ぎたのである。この経験が何だったのか今もってなぞである。