野菊の風景

はじめに
 野菊は見たことも無いのに、名前だけ知っていた。野菊の墓の小説の題名であったからであろうか。庭の荒地に小菊が茂って疎らだが一面に覆ったことがある。もう、翌年にはその姿が失われてしまった。小菊の匂いが庭に立ち込めて、白や黄、赤みがかった色合いとともに、秋の芳しさに充ちていた。しかし、それは野菊ではなかった。どこにも野菊を見ることはなかった。
 信州に来て、水田の土手やススキの間、空き地の草むらに、上品な紺色の花が咲いていることに気がついた。名前を聞くとノコンギクだという。菊の香りはしないけれど、こんなにあちこちにあるのだから、これこそ野菊ではないかと思い込んでいる。野の紺色の菊なのか濃紺の菊なのかの名前の由来も知らない。ただ、秋の草原や草むらにノコンギクの青い色合いはかけがえの無い上品さがある。一面に庭が覆われたらどんなにか素晴らしいだろう。茎は地面に垂れて、花が疎らにつき、野趣というよりは、野を構成しているようである。野では一面に生えることはなく、ススキの株の隙間に支えられてか細く立ち上がっている。それでも、花の色彩だけは小さいが輝くように際立っている。鮮烈な野の色彩である。

草刈
 昔の農村では草刈は重要な作業であったということである。農地と同じぐらいに草刈場が広がり、入会地として共同で利用することが行われていたということである。家畜の飼料、農地にすきこむ肥料として利用され、農業機械や化学肥料の普及以前には不可欠なものであった。草刈と火入れによってススキ草原が成立していたのだろう。ススキは茅葺屋根の材料となり、草花は神仏への供花として採取されていたということであり、ワラビなどの山菜を得る場所でもあったのであろう。今はこうした草原もなくなって森林に代ったところが多い。
 今、草刈は水田の土手や道路際が中心である。その作業も鎌ではなく、ビーバーが使われる。ビーバーの効率は大きく、広い草地を短時間で低く刈り込んでなめらかな草地を作る。しかし、刈り払われた草は利用されることがなく、草地の上で枯れていくだけである。草地は次第に単純となり、雑草や牧草などで覆われ、多様な野草は見られなくなる。刈った草を利用した時代に、刈ることによって草を育てる意味もあったのであろう。刈り取る時期は草が厚みを増した時期であり、貴重な植物は刈り残して育てようともしたのであろう。それは鎌の手作業であったせいもあるだろう。
 木陰には草は少ししか生えない。水田の土手には木が残され、木陰があり、休息場や何かを置いておく場所にもされていた。時には木の根元が塚となって、その木を護っていた。今は機械化に応じた大規模な農地のために圃場整備がなされ、農地の中の木陰もほとんど見ることは無い。水路沿いの草地も水路がコンクリート製となってその場所を失ってしまった。広い農地に人影は無くなり、豊かな稲穂もただ、刈り取りのためだけに人を集めるようである。そして、時折、ビーバーの音が響きわたるのである。
 私はビーバーを使ったこともなく、森林ではチェーンソーも使わない。ひたすら、鎌と剪定鋏、鋸を武器としている。農民でも林業技術者でもないのだから、止むを得ないこととしている。しかし、今では誰でもビーバーやチェーンソーを使っており、ホームセンターに売られている。私は何と馬鹿なことをしているのだろうか。しかし、昔の人が手作業によって大切にしていたことを体験し続けたいとも思っている。
 私は鎌で刈り、手でまわりの草を引き抜いて、ノコンギクを救い出す。雑草の間に埋もれていたノコンギクは明るい太陽で野の主人公となる。様々な植物を見つけて、野の美しさ、森の美しさを顕在化させるのである。刈り払い、切り倒すためではなく、草木を残すために。