定住と漂泊

はじめに
 旅に出て旅先にそのまま住んでしまうことがあるなら、何故、今住んでいる場所を離れるのであろう。住んでいる場所で生じる変化も変化という点では旅のようなものである。場所を移動し、時間を経過して、人は止まることはない。若い頃、育った家を出て、親とは異なる道を歩むことを多くの人は辿っていく。学校生活は終わり、別の学校にか、社会へと出て行く、これらは、旅立ちとも呼ばれる。旅立つ人と送り出す人との別れがある。その旅立ちは別世界に入っていく過程なのであるが、未知だった世界が少しずつ明らかとなり、自分の場所と新たな世界が分かり、別世界に入っていくのである。その世界が自分の世界にならない内に、別世界はいたるところにある。留まることなく旅してまわるのは、別世界から別世界への漂泊である。新たな別世界のために、先ほどまでいた世界が過去となり、時間的に過去の別世界になるだけでなく、空間的に離れて別世界となる。漂泊が過去を漂白していく旅、そして、元いた場所に回帰しても、その場所は以前とは異なる別世界となっていることに気づくのである。
 移住者と漂白の旅人とは異なる。何故、旅するのか、それは現状からの脱出であり、理想を見出すためではないのか。移住者は理想を希望として旅立ち、理想の地を見出して定住しようとするだろう。理想の地が見出せないで旅を続け、漂泊の旅人となるかも知れないが。理想を見出せないで、現状に不満を持って甘んじなければ、定住できないのであれば、旅立つべきなのかはわからないことであるが、少なくとも、理想を見出すまで旅立たないのが無難だろう。理想と現実が一致して定住できる場所が安住の地なのである。
 しかし、不満を抱くだけで、理想も無くすごす現状は、安住とは言えないだろう。しかし、多くの人が安住の地に定住しているかは、疑問である。理想と現状とはいつでも乖離しており、現状を脱出して、理想に近づける努力なくしては、理想を現実とすることはできない。安住の地は理想を現実とすことで得られる。そういう人は、いつでも、理想と乖離した現実から脱出する旅人であり、理想を現実のものとしたい移住者であるのかもしれない。
 心打つ言葉「少年よ大志を抱け」はいつか忘れられてしまうことなのであろうか。停滞した社会に右往左往する阿Qは、自分自身なのかもしれないことを恐れなければならない。

一人旅の歌
 おやじは長い人生の終わりまで「一人旅の歌」を歌っていた。若いときから歌っていて、子供たちにも教えてくれた。しかし、他の人が歌っているのを聞いたことは無い。旧制中学の時代に教師から教えてもらったと聞いたように思う。年取って歌詞が記憶から遠のいたのを思い出して、孫に書き残し、自分でも歌った。そして、遥かな旅へと旅立ったのである。