造園の本質

はじめに
 「造園の本質」は恥ずかしながら、私の卒業論文の題名である。先日、その卒業した大学で研究室百周年の記念事業が行われ、出席させていただいた。卒業以来、研究室を訪れたことはなかったので、躊躇もあったのだが、研究室の教授の親切なお誘いから、長い時を超えて大学を訪れた。そして、百年の連綿とした卒業論文題名を資料として頂いた。百年からすれば、45年前の卒業は歴史の半ば当たりである。林学科、造林学研究室では私の卒業論文は異端児で物議を起り、指導していただいた今田先生から擁護していただいたこしたことを聞いたことがある。
 私は高校から大学に進学するのに、学びたい専門は「造園」だった。造園で何がなされているかも知らないまま、農学部はそうした専門に近づける分野と考えてしまった。何故、造園なのか、それは環境を創り、それによって人が主体的に生きることを確保できるものと、子供の時の世界から実感したからである。子供の頃、遊びの世界にとって、大人の社会は違和感に満ちていて、子供の世界を拒絶しているように感じられた。麦畑に入ると怒られ、人の家は垣根に仕切られ、それを越えることは禁止されている。道路は自由に遊ぶ場所であったが、通行の邪魔になれば追い立てられた。しかし、そうした中で、電線に邪魔されながら、凧揚げをし、農地の中に水路伝いに魚やトンボを捕まえにいった。こんなに楽しい環境に厳然と立ちはだかる大人の環境は大都市近郊に移住してから、一層、大きくなり、息が詰まるばかりで、そこから、小説の世界に浸ることで、少し逃れることができたが、実態感のない世界であった。しかし、本からの空想によって社会への意識が次第に鮮明となった。
 人は自由には生きれない、しかし、社会的条件の中で自由の可能性を見出すことが出来る。子供の頃、自由であった世界を社会的条件でどのように見出すことができるか、あるいは、作り出すことはできないか。それを造園だと考えた。小さなコケの寄植えや種子からの果樹などの芽生え、などの新鮮な印象と自然の力への期待が自由な世界を作る材料にもなる。一方、その頃、大学は安保改定の反対をめぐって、学生運動が盛り上がっていた。社会は平和とは言えず、主体性は運動を通じて確保されることを実感した。しかし、その運動は一時の情熱が過ぎ去ると、自分一人取り残されることになった。期待から挫折へ、しかし、挫折に浸る感傷は全く、無意味であることが、私の大学生活の出発点となった。

林学の中で
 教養を経て、専門への進学は、農学部を目指すものであったが、農学部の中で、残された学科は林学科であった。北海道の雄大な森林や自然に山登り、スキーなどで触れていたが、その自然環境には開拓の歴史の跡があり、そこでは自然の厳しさが対峙されていた。そうした自然環境に取り組める林学に自分の志望を生かす可能性が感じられ、その期待は裏切られなかったが、学ぶ時間は限られ、志望への乖離が生じ始めた。直接の専門ではなかったからである。林学教育は森林官の技術教育として古典的に組織だてられていたが、それが、周辺科学、専門の基礎科学の進展に即応して改変が図られつつあり、そこに生じた混乱は林学を不明瞭とし、雑学的な状態としていた。自然科学として岩石や植物、動物の講義は興味深かったが、測量学を学ぶ意味は教える教員が説明に窮していた。中島広吉先生であったかどうか明確でないが、年取った先生の森林経理の講義に林学の意味が感じられた。また、演習林での実習は意味あるもの感じられたが、林業との関連を実感するものではなかった。林学の興味は尽きないものがあったが、専門全体の方向性を理解するには時間が足りなかったのだろう。
 アルバイトで1ヶ月半を知床で過ごしたが、林道開設のために測量であった。神秘的な原生林に北海道の自然の豊かさを感じる中で、林道開設と結果として生じる森林開発にも大きな疑問を感じた。また、研究室の助手の教員に連れて行ってもらった火山の埋没林再生の植生調査では、森林の再生力の力強さを実感したが、途中で見かけた火山山ろくのカラマツの植林地が先枯れ病で枯死している姿に造林技術成立の困難さが感じられた。