森林と風景の成長

はじめに
 国木田独歩の「武蔵野」は著名な随筆となり、雑木林への関心を増大させたといえる。しかし、都市近郊に住んだ著者が未だ残る農村風景の中を散歩し、鑑賞するものであった。これは、志賀重昂の「日本風景論」にも通じた態度であったろう。こうした態度を極言すれば、小島の「日本山水論」の現地の人々を土人と表現するような知識人の優越意識にも通じたものであるだろう。柳田国男はこのような風景への観照的態度と優越感に反発を覚え「風景は成長する」との文を草している。また、島崎藤村は「小諸にて」で風景描写を試みたが、農民の働く姿を描き、やがて、そこでの人間の葛藤を小説に昇華させた。田村剛に「武蔵野」の題名の著書があることを近年知ったが、未だ読んでいない。想像するだけであるが、これらの森林と風景に対する態度、そこに住む人々との関係の時代的変化を反映して書かれていることと期待している。
 柳田國男は「風景の成長」の一つの題材に野辺山付近の開拓の風景を取り上げている。開拓者は森林が切り開き、開拓地へと風景を変貌させる。偶然か意図的かは分からないまま、樹木が残される。人々はその樹木を目印とし、木陰で休み、牛をつないでいく。そうして耕作地、住居、道の傍らに樹木が残る風景が出現する。それは人々が、その土地でその樹木を利用し、残すことに価値を見出したからであろうというのである。風景を生み出しているのは、その住民であり、農民であった。風景を鑑賞するだけの人は風景を生み出し、変化させるものではないということである。それは柳田の民俗学の主張するところでもあったのだろう。
 しかし、個々の人々の意識を超えた開発事業は、風景に破壊的影響を与え、都市近郊の農村風景を変貌させていったのであろう。田村に期待する点は、国立公園の設立を巡ってのことであるが、破壊的開発に対して計画的な開発を主張する立場にあったからである。柳田の開拓地の風景も森林を破壊する前にその価値を考えていたなら、樹林を必要なだけ残しておけば、良かったのだろう。後から厳しい気候条件によって防風林を必要とし、カラマツの植林がなされている。

風景の衰退と森林の成長
 現在、農村の老齢化によって耕作放棄地も生じる状態は、風景の成長とは逆に風景の衰退であり、荒廃といえるのであろうか。廃村の風景は朽ち果てた家屋、放棄され草に埋もれ、やがてそこに人が住んでいたかも分からなくなる。道も途絶え、誰も過去を知らなくなって忘れられていくのであろうか。過疎化、廃村はこれまでも各地に無くはなかった。
 そうしたところは森林が回復し、もとの風景へと戻っていったのである。森林の回復の中で衰退しながら最小限の生活が確保されるなら、自然に人の生活が調和した新たな風景が出現している可能性が考えられる。やがてその風景も森林の中に埋もれても、森林の成長とともに風景を成長させ続けた人の営みとして、その痕跡は森林の中に留められるだろう。そして、森林の成長は新たな利用を喚起して、林間の風景を成長させていくのであろう。林学の計画的な立場から、今後の林間風景展開の可能性は見出せないのであろうか。