枯れ枝の木工

はじめに
 マツは密生した林では早くに枯れ上がり、下枝は高くついている。その下に太い枯れ枝が残っている。その枯れ枝を切ると、年輪が細かく詰まっていて、中心は赤く硬い部分が見られる。幹にも同じ赤味があり、年数がたつと外縁に広がっていくそうである。その赤味は節にも見られ、節は枝の跡であるから、枝から出る松脂にと関連があるのだろうか。木材は乾燥して変形しないことが問題となるが、枯れ枝は立ち木のまま、乾燥が進んでいるので、利用するには丁度よいのではないだろうか。とくに、この飴色の心材は、色といい、硬さといい、魅力的である。
 小さな頃、戦後の物の無い時代であったが、祖父がアカマツの材木も節が多く、樹脂が浮き出るような状態であったが、そうした材の切れ端の樹脂の出ている赤い部分を削って、茶さじを作ったが、鼈甲のように透明感があった。また、その祖父がおもちゃの船を材の切れ端で削ってくれた。以来、木材は削ればいろいろなものを作ることが出来、枯れ木の枝も貴重に思えた。

木工の時代
 先日、北海道を巡ったとき、博物館でアイヌ民族の生活と異物の展示などを見かけた。全く、縄文時代の生活のように思えたが、明治時代までアイヌの人々の生活が持続していたことは驚異的なことのように思えた。土器が使われ、多少の農耕も行われたようであるが、その道具の多くが、木材で作られ、衣服でさえも樹皮が使われていたことは驚きであった。センノキの大木をくりぬいた丸木舟、かっては石器をくくりつけた鍬の柄、様々な道具が木製であった。それらは専門家が作ったのではなく、誰でもが技術をもっていて、作れたのだろう。狩猟採取を主として森林を生活域として暮らした人々の様子が浮かび上がる。縄文時代以前から、石器が重要な道具で、やがて農耕の時代とともに、金属が取って代わったが、木材は連綿と様々な道具に使われ、住居の骨格に利用されたといえる。
 木材利用における大工や建具、家具などの職人の仕事は、江戸時代に作られた士農工商の身分秩序の中では職人の領域とされたが、多少ともの道具や資材として木材の利用は農民や一般的な手仕事でもあっただろう。明治になってからも木材は生活用具の各所に利用され、森林は木材詐取の場所と身近かに感じられていただろう。それは、戦後しばらく物の無かった時代へと連続している。

プラスチックの時代
 現在、あらゆる道具がプラスチックで作られている。木製の道具はプラスチックの道具の中のわずかな選択肢に過ぎない。木材の加工の労力は型に流す作業に代わり、大量生産が可能にされ、安価なプラスチック製品が氾濫するようになった。木製品の出番はますます少なくなり、高価な材料となっていったが、実は大量の資源が森林に蓄積されている。枯れ枝はあちこちに朽ちてゆくばかりである。木製品が高級であることは木材資源の利用を停滞させる理由の一つになりうる。木製品がプラスチック並みに安価なものとなれば、木製品の利用は増大するはずである。
 しかし、問題は価格だけの問題ではないかもしれない。プラスチックが工業製品であるのに対して、木製品は手工業的生産の段階を超えていないことが問題ではないだろうか。多様な製品を生み出す手工業としての木工業を、生活用具を手作りするハンドメイドに徹底して転換するのはどうだろう。材料、半製品を安価に供給して、プラスチック製品の専横に対抗すべきではないだろうか。ところで、材料は森の中に転がっているのだ。山に行って枯れ枝を拾って見るとそれがわかる。