西洋庭園と森林

はじめに
 庭園は住宅に付随する居住空間の戸外部分である。西洋庭園(ガブリエーレ・ヴァン・ズイレン:ヨーロッパの庭園、創元社、1999年)は古代から中世から近世、近代へと、変遷しているように、描かれている。しかし、それは変遷ではなく、中世の領主の城郭の庭園は中世に限定され、地域的にも限定されたもので、次の時代に連続したものとも言えないないのだろう。例えば、中世の城郭の中の庭園と近世ルネッサンスのヴィラの庭園とは連続しているとはいえない。庭園の空間は、エジプトの壁画に描かれたように、古代から存在したことは確かであるが、国、時代によって、居住空間は相違し、戸内に連結する戸外空間としての庭園の役割も相違することは確かだろう。庭園の変遷を連続として見ずに、時代による役割の相違として見て、庭園様式の相違を理解する必要があるのだろう。
 イタリア・ルナッサンス式庭園とフランス絶対王政の宮殿の庭園とは、連続するとされ、丘陵から、平野へ、都市国家の貴族から、絶対王政への規模の相違が、庭園様式の相違をもたらしたという仮説は正しいのであろうか?フランス整形式庭園はヨーロッパ各国の王宮の庭園として広まった。しかし、イギリスでは絶対王政による庭園ではなく、貴族の庭園として受け入れられた。また、地形は緩やかな丘陵の地形となった。イギリスの貴族は大規模な土地を所有し、その土地を農園とする経営者でもあった。こうした条件がイギリス風景式庭園という新たな様式を生み出し、啓蒙主義の自然回帰とともに、再び、ヨーロッパ各国の王宮や貴族の邸宅に受け入れられた。この庭園様式の変遷は、流行という点では連続しているのであろう。しかし、庭園の役割は大きく変わっている。
 西洋庭園の近世から近代への三様式を土地の形状からだけでなく、土地所有に注目してその相違を比較すると、イタリア庭園は貴族が都市に近接する丘陵の所有地に作られたヴィラに付属したものであり、フランス庭園は都市近郊の広大な領地に作られた王宮に付属し、イギリス庭園は地方の貴族の農園に作られた邸宅周囲に作られたものである。これらの庭園は所有地、領地、農園のヴィラ、王宮、邸宅に存在し、建物を土地の広がりに連続させるものである。庭園は住居に付属すると同時に、土地の広がりを背景としていることになる。庭園の背景こそ森林ということになる。土地・森林を主役とすれば、いずれの庭園様式も、森林が庭園を囲んで縁取り、庭園の中に建物が配置される。

森林美学における庭園
 ザーリッシュの森林美学においては森林の中の施設として庭園がとらえられている。ピュックラー・ムスコウの造園はザーリッシュの著書の中で、度々取り上げられている。ドイツにおける風景式庭園の理論家であり、実践者でもあったピュックラー侯の庭園は地上から見るように、ドイツとポーランドの国境を挟んで公園となって残っている。上からであるが、変化に富んだ絵画的風景が各所に見出されることが想像される。邸宅自体が風景の中にあり、邸宅を中心に、草地の広がりに変化を与える樹林、地形の凹部を強調する水面と蛇行する水路、草地の広がりは、遠方で樹林の密度が増して森林へと連続する。広い森林は外部から庭園を庇護している。かくして人と自然、庭園と森林は融和した風景を構成している。
ムスコウ公園(グーグル・アースより)
 イギリスの風景式庭園は農園へと連続し、農園が風景式庭園の一部を構成するようになって、庭園と農園の境界がなくなると、居住空間としての庭園を再認識する必要が生じた。また、風景化した農園が、最新の農業経営と結合して、ドイツの農業に影響を与えることになった。農業と農業景観は実用と美として結合したといえる。しかし、森林との連続は、庭園との境界を失うものではなく、庭園が森林に変わることもありえなかった。庭園は人々の活動のために開放された場所であり、森林は樹木が密集して生育し、森林自体の閉鎖的で、完結した空間であったからだろうか?
 ザーリッシュの第二版にはベルリンのティアガーデン(動物園)の写真が2枚加えられている。ティアガーデンも現在の上からの写真であるが、全体的には風景式庭園で構成されている。しかし、建物の周囲に一部、整形式庭園が見られる。風景式庭園はムスコウ公園と同様に森林へと連続しているが、整形式庭園は森林を背景としながら、厳然とした庭園空間を保っている。森林に対して庭園は対立的、対比的に接しているために、それぞれの特徴を強調しているように見える。しかし、2枚の写真は、樹木が大きく成長して、人工の水面を圧倒しているように見えて、管理の不備が庭園に自然回復をもたらしているように見える。庭園は廃墟となって自然の森林に調和しているではないか。
ベルリン・ティアガルテン(グーグル・アースより)
ティアガルテン(グーグル・アースより)