現実とユートピア

はじめに
 19世紀初期に現れたユートピア思想家が、産業革命期の社会的対立を克服するために活動したことは明かなことである。資本主義経済の進展とともに、ますます増大する労働者とその貧困状態が、資本家に対する改善要求の運動を引き起こしたのは必然的だったのであろう。この現実とは反対に、ユートピアは社会的対立のない平等と労働の成果を分かち合う共同体を眼目としている。マルクスはこうしたユートピアを空想的と批判している。現実社会ー資本主義社会の科学的分析を通じて、労働者が多数を占める社会への進展がもたらす、必然的な結果を予測し、社会自体の変換を目標として理想社会の実現に向かう活動をすべきとした。しかし、そうした社会構造の変革を待っていては、具体的なユートピア像が見えなくなったことをヴェネヴォロは指摘している。エンゲルスは当時の労働者の悲惨な居住環境について報告している。居住環境の改善は、法律的な規制によってなされるが、最低限の居住環境の改善であり、理想の実現はハワードの「田園都市論」によって示された。ユートピアは計画都市によって現実化されたのであろうか。
 先日、ある地方都市で大型店が集積し、一体化した建物と大駐車場に入った。田園都市の中心商店街、クリスタル・パレスとはこうした建物を指すのであろうかとふと考えた。大勢の住人が集まり、様々な商品の売り場と広場のような大食堂では何百人の人が、それぞれ食事を摂り、子供のための遊び場まで用意されている。ユートピアで描かれた共同食堂、共同保育所のようなイメージでもある。数万の地方都市では、この建物一つで人々の生活の用は充足するのかもしれない。住居は離れているが、自動車によって接近でき、そのために大駐車場が用意されている。豊富で安価な商品を、人々は自由に選択できる。

ユートピアの現実
 これは、いかにも安泰な生活を示しているようである。一方では、今年の大学生の就職の予測では10万人が就職できない可能性があるという。人口が減少し、失業率の割合が増大していることは、大きな問題である。消費生活上の一見のユートピアは、労働の場がなく、所得が得られなければ成立しえなくなる。収入面からは、ユートピア的現実を享受できる人が、少なくなるということになる。
 大型店が集中し、結合した地区を・・・プラザと称している場合がある。こうしたプラザの大小の地区が、各所に出来ているのであろう。周辺の住民がこうした忽然と出現した都会を享受しているのであろう。そして、どの地区も全国展開するチェーン店の集合なのである。どこのプラザもその中心は巨大な駐車場である。そこには周辺から集まった買い物客の群集しかおらず、群集は共同体ではない点で、共同空間として目に映ったのは、幻想であったのだろう。豊かな物資を手にして帰る人々は、個々の家々で、その豊かさを享受しているだけなのである。

内なるユートピア
 物質的な豊かさは、ユートピアの条件ではあったろう。その豊かさを得るために、労働が自由を失う拘束であれば、豊かさとは言えない。ユートピアでは、労働自体も自由であることを、ウィリアム・モーリスは想定している。モーリスは一方で、アーツ・アンド・クラフツ運動を展開し、生活とその環境の総合的な芸術化を目指した。豊かな生活自体が、単なる物質的な充足ではなく、創造的なものとして追求されることを主張したといえる。個々の人の理想の追求と理想を実現するための創造に、価値があり、生活の豊かさであると言い換えることができるかもしれない。
 工業における生産力の向上は、物質的な豊かさをもたらしたといえるが、機械に従属する労働、大量生産によって供給される商品に従属した生活と、個々人の主体的な生活条件が脅かされている。個人が主体的生活を取り戻し、そこに生じる人間関係としての共同体が新たなユートピアとなる可能性あるのではないだろうか。拘束なき自由な労働は、そのユートピアにおいてどのように成立するのであろうか。

ユートピアの実現
 マルクスの言うようにユートピアは空想であり、社会の科学的分析によって現実を明らかにしなければ、実現の可能性はないだろう。空想によってドリーム・ランドは商業的に成立した幻想の実現であって、理想の実現とは言えない。ドリームランドよりも、保育園や福祉施設に現実的な理想とそれを担う高邁な努力で、ユートピアの一端が垣間見えるのではないだろうか。