子供と空−老人と海−

 老人と海は、年取り、引退した漁師が漁師ではなくなり、ただ老人となっている。老人には海は様々な体験が積み重なった自分の世界の諦観であるのだろうか。日本では、農家の庭は隠居した老人のものであった。農地の景観は生産の場をむき出したような眺めであり、季節に農作業が加わって変化する。その景観を眺めていては、隠居の諦観は生じないのかもしれない。老人にはそれぞれ相応しい眺めの対象があるのかもしれない。それは、若く仕事に打ち込んだ場所と関係し、諦観できる眺めなのではないだろうか。
 子供には諦観はないが、世界は興味の対象であり、無秩序な対象の眺めに世界が見えなくなる。そんな時に、ふと見上げた空は、地上の雑多さに超然として変わらぬ日々の循環的変化をもたらしている。地上の背景となる空の眺めは、子供の世界の憧れの背景ともなる。空は未来への希望に満ちた憧れとなり、目を閉じた暗黒とともに、自由な空想を喚起する。空を駆ける鳥、漂う雲は、空の自由を象徴する風の表れとなり、子供の心は風と一体となる。
 子供から大人になって、現実に直面し、現実の中で自分の場を見つけなくてはならない。それは社会への適応ということであったろうか?そこには子供の頃の空想は可能な夢となって、実現し得たのだろうか?人それぞれの様々な夢に向かって、現実に直面する。力を蓄え、何度でも挑戦すれば良いのだ。その挑戦が力尽きて止むとき、人は老人となり、現実は諦観の対象となる。老人は海と魚に挑戦して、老人はただ諦観してはいないことを示した。しかし、二度と挑戦することは無いのかもしれないが、それはわからない。
 引退した老人は子供のような面があると言われる。確かに、現実の只中で生きていないことは共通している。そのため、老人も子供の素朴さに回帰することもある。しかし、子供の目の前に広がる世界は、空を除いて世界であることを実感できるものはない。子供にとって、世界が多様で謎に満ちており、謎は解き明かされることを持っていて、世界は魅力に満ちている。自分の世界を見出した老人は、子供の空想から自分の体験した現実への思い出へと変わってきた。そして空と地上が一体化して、遥かな眺めに見入るのであろう。

子供と老人をつなぐもの
 子供の親の父母、子供の祖父が老人の世代だろう。すなわち、大人の世代が子供と老人をつないでいるといえるだろう。子供は大人になり、大人がやがて老人となる。大人は生産活動を労働によって担っており、子供を育て、老人を養い、社会を支える存在である。そして、子供の頃に抱いた夢の実現にも向かっている。