庭園の物理的自然と生物的自然

はじめに
 小学校の教科書の理科の内容は忘れたが、身近な自然の物性を知り、目が開かれ、科学的方法の一端の価値に触れたといえる。生物学では水槽で魚を飼うのは楽しいものだったが、蛙の解剖は、気持ちを悪くした。子供の頃、直接接していた自然物は、生物と鉱物であり、また、食物であり、それは具体的な事物であった。その具体的な事物を科学的に一般化した知識として理解する理科は、学習する足る興味をひいた。しかし、それは子供の触れる自然環境そものではなく、部分的な疑問を晴らす知識でしかなかった。
 古今東西の庭園は、広狭の囲われた空間を人工的に構成したものではあるが、そこに自然的要素が取り入れられていないものは見当たらないといえる。ある意味では庭園の主題は、理想的な自然環境といえるのかもしれない。子供の頃、体験した全体的な自然環境が、意識化されて理想となりうるであろうか?原風景は理想ではないが、深層に潜む記憶として回帰することは、奥野が文学で検証したように起こりうることではある。理想の環境は、楽園への願望であるという説もある。あるいは、自然の根源や、世界の創造主と一体となりたいという願望もあるだろう。あるいは、支配者として君臨する世界の模型であるかもしれない。求める理想は人様々であるとすれば、その通りであろう。それらの理想は、自然をどのように取り入れ、構成して実現しうるのかを問題としてみよう。
 われわれの学んだ理科は、物理、化学、生物に分かれていたが、庭園の自然の理想を実現する方法には物理的自然と生物的自然の要素や法則的秩序が比重を変えて用いられる。造園の技術として物理的自然の基盤を造成する土木技術、生物的自然の基盤を造成する植物や動物の栽培、育成のための農業技術と空間を構成する建築技術が、本来的に人工的な庭園の環境を構成する上に適用される。こうした生産技術の適用によって、生産技術が目標としていない空想的な理想の自然環境である庭園が生み出される。

庭園の物理的自然
 庭園が戸外空間である限り、光、大気、基盤としての土地が前提として存在している。それらの自然を理想の条件となる環境の快適性に近づくように調節する。基盤の土地は地形を改変し、風は強風を緩和され、日照は緑陰などによって調節される。そして、岩石や砂や土、水などの物理的自然の要素を持ち込み、それらの物性としての特徴を強調するように関係づける。岩石の重量は支点の安定によって支えられ、水は水面の広がり、光の反射、上から下への流れによって強調される。日照や月光と事物の陰影は空間の開放と閉鎖によって、受け入れられ、遮断されることによって、方位、時刻、季節による運行の位置が区分されて強調される。そして、天空や大気、地上の条件が調節され、支配できるという満足が得られるだろう。
 庭園の視覚的デザインもまた、光学と関係する物理的自然の改良に関係している。空間と事物の形態に光線が投じられることによって視覚が構成され、空間の認知がなされる。視覚から五感に感覚が広がると空間的側面から全体的な環境を認知することとなる。環境を構成する要素には嗅覚と味覚によって化学的自然が知覚される。

庭園の生物的自然
 物理的な自然の条件下に生物的自然が進出することができる。植物にとってその条件は湿潤な土壌であり、日照、気温の温暖さである。しかし、植物の種類によってその生育を要求する条件は相違しており、場所による条件の変化が植物の生育を多様なものする可能性が生じる。さらに、植物の生育が環境の変化を生じさせ、空間的な配置の組み合わせによって、種類とその構成が多様に変化できる。生物的自然は植物の多様さとその互いに棲み分けて生み出す変化と連結した関係が、環境の全体性を生じさせる。
 人工的な庭園と生物的自然とは対立的関係にあるといえる。物理的な自然の改良によって作られる庭園に生物的自然を持ち込むには、生物的自然を条件づける物理的、化学的な環境の操作が必要である。また、逆に生物的自然の侵入を抑制する環境条件を設定しなくてはならない。

これからの探求
 庭園が物理的自然と生物的自然を理想的環境として実現するという命題は仮説にしかすぎない。ある程度の憶測はいくつかの庭園様式について、何人もの人が行ってきたことではあるが、世界の庭園様式を実例として、検証する時、造園の理論となりうるかもしれない。