都市の広場と公園、都市林

はじめに
 ヨーロッパの都市には広場が必ずあるといわれているが、また、日本では広場が無いと言われ、わずかに、江戸時代に防火のための空地に人々の集まる場所があったことなどが取り上げられる。古代のギリシャから都市と広場が存在した点で、市民社会の成立がもたらしたと考えられている。こうした広場に対して庭園は個人的な空間であり、土地の私有とともに存在している。近代において庭園の共同化や支配階級の庭園の公的な開放、さらには、公共のための庭園である公園が作られることになった。

広場と公園
 そうすると、近代都市に市民社会の中心となる広場と公園とはどのような相違があるのだろうか。広場が街路の結節点にあり、交通の集中点として都市空間に解消して消失し、その代換として都市周辺に公園が作られたのであろうか。近代造園の出発点となったオルムステッドによるニューヨークのセントラルラルパークは都心に作られた点では、広場の空間であり、オルムステッドは公園の草地を民主主義を体現する空間として見ていたという。しかし、それは広場ではなく、パークである。

公園と都市林
 パークの起源は中世における領主の狩猟地の名称であったといううことであり、私的な森林である。個人有地として庭園化される場合もあったのであろう。一方、農村共同体にとって森林は共有地の一部に存在するもので、領主の私有と村民の共有とは相克するものであった。また、都市には都市の公有林が確保されてきた。近代市民社会は、共有地と都市林を市民のために確保し、利用することが必要とされた。また、パークも公的なものへと転換することが必要となったのであろう。

中央公園
 近代都市にとって、街路あるいは交通が集中して、人々の集まる場所が都市の中心である。そこには広場が必要である。庭園や森林は個人の憩いを求める場所である。これらの複合物がセントラルパークを生み出したのであろうか。札幌、名古屋その他知らないが、日本の近代化された都市には、中央公園が作られている。しかし、その混在した機能を発揮することができているのだろうか?

農村の広場
 原始的な共同体社会から定住地に人々が集まる広場が不可欠であった。古代の専制国家において農村支配の中心となる都市には王宮や神殿や市場のための広場の成立するが、共同体の広場は農村に姿をとどめるだけのものとなった。日本の農村には、共同体の広場が神社と分離した辻広場の姿で見出すことが出来る。これは現代の近隣区域の子供の広場(プレイロット)に類しているようにみえる。