北海道の森林風景

はじめに
 北海道の森林風景が、内地と相違して感じられるのは、植生帯の相違によるものと簡単に応えられるかもしれない。また、開拓が明治になって行われ、天然林が豊富に残されていると言う事も出来るだろう。では、内地の森林風景の特徴は何か、それに対して北海道の森林風景はどんな特徴があるかが問題となるだろう。国立公園法が昭和6年に施行され、それに先立って新八景の選定が世評に上っても北海道の人々は、それに応募するには積極的ではなかったことが指摘されている。しかし、国立公園の選定には、新八景には当たらなかった大雪山が国立公園の指定を受けている。また、「日本風景論」を表した志賀重昂が北大出身であり、在学中には北海道の各地を探索しているのに、北海道の記述は僅かであり、日本風景論によっては、北海道の風景はとくに注目されなかった。また、大正7年に北大教授の新島善直と村山醸造による「森林美学」が著され、北海道の樹種の美的特性が論じられている。こうしたことを考えると、知識人と地元住民、北海道と内地に北海道の風景の認識に大きな断絶があったと考えられる。

洋式風景
 日本人が近代的な、あるいは、西洋の風景観を受け入れるのに、「日本風景論」はその端緒となり、新八景の選定は転換をもたらしたと考えられているから、大雪山の国立公園指定は、風景観の転換がもたらした結果とも推定される。とすれば、大雪山及び北海道の風景は、西洋的な風景観に合致したものということが出来る。では、どういう点が、西洋的なのだろう。今日にも北海道の旅行者はその風景に、先住民の風景よりも、西洋の風景と重ねているのではないだろうか。たしかに、風景の雄大さ、森林の豊かさは内地には見られないし、寒冷な気候に展開した農業、畜産業は、西洋の農業開発を範とし、アメリカ人の指導を仰いでいる。都市の開発や建築も明治の開拓時代の洋式の形態を残している。
 しかし、開拓に移植した人々は、そうした洋式の風景を求めていたとは考えられない。故郷を思って望郷樹が見られることは、これを示している。この内地の郷土風景は、郷土の生活様式の持続や再現を期待するものでもあったのではないだろうか。しかし、気候風土の異なる北海道で故郷の生活様式を持続することは困難を極めたことだろう。学生時代に北海道で稲作が始めて定着した増毛に行ったことがあるが、冬の凍える寒さに身を縮ませて寝たことがある。こんな苦労が洋式の土地利用による風景のなかに内在しているように感じられる。

森林風景
 開拓にとって森林は邪魔な存在であり、開拓民の苦労は並大抵ではなかったであろう。しかし、その努力によって森林は後退し、森林保護の必要も問題とされたようである。新島らの「森林美学」が著された大正7年にはどのような状態であったのだろう。開拓から50年後で、人口も定着し、都市環境も安定してきたと考えられる。宮部金吾が丹精込めたといわれる北大植物園の今日の姿だが、外国産樹種が植栽されていること、天然林が残されていること、洋風の建物が残されていることなど、まさに、洋風を感じさせる。当時も、札幌の時計台、北大構内の洋風建築と大木と芝生、市街の碁盤目の街路などで、洋風の風景であっただろう。
 しかし、私が、昭和35年に下宿した先は、木造の開拓時代のような建物で、マキストーブで暖をとっていた。そのマキは皆、シラカバであった。たしかに、手稲山はシラカバ林であったように覚えている。そのシラカバ林は火事跡地に成立することが多いことから、どれだけ山火事が多かったことだろう。北海道の針葉樹林は、本州の亜高山帯林に該当するという。亜高山帯の森林施業に目処が立てられていない状態で、北海道の森林施業の困難さが思われる。私のいた頃から、カラマツの植林が行われ始めた時期であったので、幼齢林には出会うことがあった。それから、50年にもなれば、カラマツ林も北海道の森林風景を構成する要素であろう。こうした北海道には二次的、外来的なシラカバ林とカラマツ林も、北海道の森林を洋風なイメージに転換させているのだろう。しかし、森林風景の基調にはトドマツの人工林が天然林の針広混交林を見出したことに、昨年の秋の旅行で安堵した。こうした森林が、さらに豊かに、存在したのであろう。


文献
 田中正大:日本の自然公園
 新島善直・村山醸造:森林美学
 志賀重昂:日本風景論
 俵 浩三:北海道の自然保護
 榎本守恵:北海道の歴史
 藤田文子:北海道を開拓したアメリカ人
 野田正光:北限に生きる望郷樹