造園空間は利用者のための空間になりうるか

はじめに
 造園空間とは造園家によって作られた空間であり、住宅庭園、都市公園などを指し、都市緑地や自然公園は造園家が介在しても、既存環境の保全を中心として利用する点で創造的な造園空間とはいえない。しかし、庭園や都市公園も造園家によって創造されるのであろうか。住宅の住人が自ら住居の周囲に生じる戸外の敷地を住居の部分としての庭園空間を欲した時、自身で作ることができなければ、造園家に依頼して庭園を計画する。造園家は利用者に代って住居周囲の敷地を庭園空間に改変する。しかし、造園家は利用者の欲する庭園空間を顕在化させることができるのだろうか。
 敷地の条件は最初に施主である利用者が設定したものである。敷地選定から利用者の意図が存在している。造園家は利用者の意図を汲み取って、敷地の条件を理解する必要がある。造園家は利用者の意図と敷地の条件は合致しているものとして、敷地条件を造園家自身の意図に転換してしまうことはないとはいえない。庭師が生涯、何百の庭を作っても、それは自身の意図した庭であって、同じ庭を造っただけなのだという事実を疑ったとしても、ありえないことではなく、利用者の意図と乖離していたともいえない。施主が敷地を選んだと同じく、造園家を選んで依頼することも利用者の意図といえるからである。

庭師の立場
 若い頃、奈良の庭師から住宅地の庭の造園には、庭師の理解を超えた要求があることを相談されたことがある。多くの彫刻を配するように頼まれたことななど、・・・。庭師は、自身の日本庭園の技術を転用してはその意図に応えようとしていること、それでよいのかの確信のなさを悩みとしていた。一方、信州で飯田の庭師からは、自分の出来る庭を、例えば、月をを眺望とともに楽しむ庭を造るのだと信条を聞いたことがある。この信条が利用者の意図と乖離しているとは判断出来なかったが、利用者の満足があればよいのだろうと考えた。
 造園アカデミーの会合に顔を出したことがあるが、造園家の熱心な話に耳を傾けていると石積みの名人の話が論議となった。クレーンを操作する人の指示して、沢山の石を素早く、見事に組んでいく様は圧倒されるという。その人に会ったことなく、石組みを見たことも無いが、見事さが何から生まれのか、考えてきた。源流域の川原は自然の石組みが見られる。土石流や洪水の時、大きな石も浮力が生じ、激しい流れに押し出され、水流が穏やかな場所に動きをやめて川原の石組みが出来あがるという。川原のあちこちの石積みは、その力の法則が作用して、偶然の条件による千変万華の姿を生み出している。石積みの力学法則を、石積みの作業技術で偶然ではない、必然の形として表現していることが、その庭師の技を見事として見出したのではないかと推測して見た。
 庭師は古来より自然を見習うことを基本とするという。石や草木、水の自然を学び、庭園に再現することに習熟するのであろう。その自然は大気や天文と連動している。人の生命の基本もまた、こうした自然と一体のものである点で、その自然を必然的な仕組みで再認識させる庭園は、利用(生活)者の普遍的に求めるものであることが予想される。現実的な要求を超えて、空間の自然的な必然性を提示することが庭師の専門性ではないだろうか。