造園空間の無意味と意味

はじめに
 造園空間として造園設計者に与えられる場所は、敷地の中で建築や施設の周囲や隙間である場合が多く、戸外であることによって造園として対象化されている。戸外にとって敷地自体が、戸外から切り取られ、敷地の占有者の利用目的によって彩られている点で、戸外の自然的な意味が損なわれている。敷地における戸外は、その利用目的と合致する建築や施設によって付属的な意味の空間とされているといえる。戸外の造園空間として意味を見出すには、敷地の利用目的と対比される独自の意味を持ち込む必要がある。そこに造園の対象空間となる戸外敷地の付属的な意味を払拭して、それに代る意味を見出さなくてはならない。付属的意味の払拭は、一端、空白な空間を無意味なものと考え、その空白に持ち込まれる新たな意味を見出すことである。
 以上の抽象的な「意味」に具体的な例を挙げれば、敷地の建物が住宅を目的とすれば、戸外は居住機能を補完する戸外室ということになる。戸外室の意味を払拭し、空白な空間を見出した時、そこに持ち込まれる意味には様々な選択の可能性がある。その新たな意味を植物の生育する空間と仮定すると、空白は植物の背景として意味づけられる。既に先行して存在する住宅にとっての背景としても意味づけられる。戸外室の意味と植物の生育空間の意味は空白を背景として関連づけられる。変な例えかもしれないが、先日、中華料理店のラーメンで言えば、汁が背景で、麺と具が関係づけられる。麺と汁、汁と具がばらばらであれば、ラーメンは成立しえない。意味が関係づけられないところで、空白は無意味である。

空白の造園
 敷地の空白は、平面な土地の広がりである。空白なままの土地に凹凸をつけ、石や植物を持ち込み、水面を作ることで、光と大気の戸外に様々に変化する自然の意味を与えることを造園といえるのだろうか。農家の庭は空白の場所を指しており、その場所は人の行動によって意味づけられる。すなわち、仕事の場となり、物を干す場となり、遊びの場となる。庭は空白であることによって、多様な意味を持つ場である。空白のままであることが意味をもたらすのであれば、造園を行わないことで、意味をもたらし、造園をすることで多様な意味を喪失させることになる。造園空間は空白の場よりも、無意味な空間ということになる。空白な場に最高の意味を持たせたのが、白洲の庭であり、意味と無意味の極致を示している。そこに人が立ち、何かを配置した時に、意味と無意味が交差して見出せる。
 空白と存在は知覚できるが、意味と無意味の判断は想念であるのだろうか。小学校の校庭を見てみよう。校庭は子供たちが遊んでいる時、意味の満ち溢れた空間である。しかし、子供たちの去った校庭は、寂しく空しい校庭に変わる。空白な校庭は、子供たちの存在で一瞬の内に、意味のある空間に変わる。空白は意味の生じる存在を待っている場であるといえる。こうした空白を残すことが、意味ある空間を生み出す造園ということであろう。

意味のある造園空間 造園作品選集を見て
 無意味な空間を感じさせる造園に遭遇することはないだろうか。何も入っていない器には意味を感じるのに、まずい料理の盛られた器は無意味である。器には食べたい料理が盛られた時に意味を感じる。これはあまり良い例えともいえないが、まずい料理が盛られたような場所に遭遇することはあるだろう。その場所が偶然生じた場合は止むを得ないとあきらめるが、造園の計画のもとに生じたのであれば、その計画のまずさを無意味と避難してもわるくはないだろう。また、逆に多くの意味が包含された空間を出現させた造園計画であれば、賞賛されよう。仙田満氏の保育園の造園には多くの意味が込められた空間として、賞賛に値する一例といえる。造園は空白の器に盛られた料理と表現すれば、保育園の空間に子供のたちの活動を一層自由に、多くの意味を育む内容を料理として盛っているといえるだろう。器の大きさと盛られる料理の量のバランスも問題となるが、仙田氏の造園には空間スケールのバランスを感じさせる。空間を構成する材料と色彩の適切さも感じさせる。単に写真からに過ぎないのに、そんな造園空間の良さが感じさせ、作者の抜群の修練された技量を感じさせるのである。