今田先生の出会い

はじめに
 私は造園を学ぼうと北大に進学したが、そこで、造園がやれるということは確かめていなかった。友人とともに、農学部に行けば、造園が学べると漠然と考えていた。友人と共に、北大、鹿児島大を受験し、北大に入ったが、友人は鳥取大へと進学した。私たちの考えた造園は、単なる庭造りではなかったので、林学であってよかったのかもしれない。
 北大で、学生相談室で志望を聞かれ、造園を学びたいことを告げたとき、相談にあたった先生が、尊敬を持って今田先生の名前を上げたことを覚えている。農学でユリを専門とする教授も造園に関わっていることをきいたが、園芸的な造園は自分の志望とは違っていた。そこで、専門への進学は農学部林学科へと思いを定めることができた。
 若い頃、自分で考える造園は、漠然と社会改革と関連していた。人間は環境に適合しているが、環境を改変することによって、自己自身を新たな存在に作り変えている。しかし、その環境改造は、社会的に進展し、個人としての環境への理想の実現は、社会的な歪みが妨げる。個人の理想の実現は、権力者となって、妄想を現実化することでしかないとすれば、社会の歪みが正されることが、理想的な環境改変に先行しなくてはならない。田舎から出てきて、都市の息苦しさと貧しい環境に辟易して、理想的な環境改変としての造園を夢想するようになったのである。
 建築にギーディオンの著作が翻訳され出版されて、造園の可能性に大きな期待を描くことが出来た。また、社会の主体となる人民または個人と社会構造との関係を理解することをマルクスエンゲルスの著作に頼ろうとした。大学の図書館で、本を探索し、良い本に出合って喜びとしたが、図書館には新しい本よりは、古い本が多すぎた。しかし、ともかくどんな本でも開いてみて、自分合った本かどうかを確かめることにした。そんなことが教養時代の学習だった。

林学
 林学に進学し、森林に触れることは新鮮な体験であり、専門の講義も興味深かった。演習林の実習はまた、格別に体験的であるととともに、興味がわいた。実際の自然に関わることは、私の目指す造園に役立つものと考えた。また、測量や森林を巡る諸科学は環境の理解の一部として学びたいと思った。森林から木材を収穫し、利用する林業、林産業に価値あるものと考えられた。
 しかし、その林学に体系が明確でないことに不安があった。林政、砂防、造林、経理にはそれぞれ、魅力的な専門ではあったが、それらの研究室の関連は感じられなかった。体験した演習林の森林体験と専門の対象とは場所的にも離れていた。地質学や動物学、植物生態学は林学に関連する講義とされたけれど、それらの関連は不明確であった。また、林業や林産業との関連は、卒業生の就職分野ではあっても、林学という学問分野がどのように対象としているのかも、不明確であった。
 造園学の分野、あるいは、造園技術の適用として自然公園などの環境で、林学の対象とする森林とは重複してくる。しかし、自然公園と林業との関連性はほとんど見出せないという疑問も生じた。

森林美学の講義
 今田先生の森林美学の講義を卒業が1年延びたために、2回、聴くことになり、講義ノートも残っている。今田先生の講義の中で、不思議なことに、森林が主題となって話されたことがなかった。今田先生は、戦前に森林美学の研究を行い、博士論文となった「森林美学の歴史と批判」はその研究の集大成となったものである。そうした研究の話も全くなかった。
 今田先生の講義で、森林以前の美学の一端から、美の感じ方から、風景にその美の感じ方を当てはめて話をされたことが、同級の仲間に大変な関心を持たせたことを覚えている。また、別の年には、造園的な街路樹の配置を淡々と話をされていたことである。初学の学生には深遠な森林美学は理解できないと考えられて、そのように森林が取り上げられなかったのか、未だに分からないことである。ともかく、美学と造園が森林美学に関連するものであることはわかった。絵画に造詣の深い先生は、林学の範囲を越えた森林美学の広がりを伝えたかったのかもしれない。あるいは、戦後の林学、林業の展開に、失望と森林美学の復権の時期尚早さを考えておられたのかとも想像する。

今田先生の卒業論文の指導
 卒業論文の指導は、今田先生が退職していたために、林学の中では造園の課題を指導できる教員は誰もいなかった。造林研究室に入り、斎藤先生が名誉教授になられた今田先生に指導していただけるように頼んでいただいた。今田先生は毎週、水曜日に名誉教授室に来られていたので、毎週1回づつ指導していただいた。
 最初、造園の本を何冊か渡して、どんなことをやりたいのか、確かめるように言われた。渡された本を読んで、感想を書いて毎週持っていくのだが、厚い本は1週間では読みきれない。読んだ上で、この本は単なる樹木のことを書いているだけだ。といって、先生はそれではと、別の本を渡される。最後に卒業論文に役立つと考えられる本を渡していただいたのだが、アメリカの造園学の古典的な本であった。英語を訳すのに時間がかかり、一週間の進行は遅々として、先生からは訳の修正を指摘された。
 卒業後の進路で学業を続けたいと考え、大学院の進学を願い出たが、指導教員がいないことが問題とされたようである。しかし、一応、合格となった。その試験の直後に、肺炎で入院して半年の療養生活のために、休学となり1年卒業延長となる中で、造園研究室のある大学に進学するように決心を代えた。今田先生が京都大学の岡崎先生に懇切な推薦状を書いていただいた。
 卒業論文は、造園学の本は大変参考になるが、造園自体は実際に体験したことが無いのでわからないことで行き詰った。それを今田先生に言うと、経験しなくても理解はできるし、なにか書けることはあるはずだと励まされた。私は図書館で目指した造園のために学習した知識と造園の教科書を重ね合わせ、目指す造園の考えを提示することを目的に、書き進め、今田先生に順次、見ていただいていた。先生はほとんど何も言われず、次々、書き進めるように言われただけであった。そのまま、書いてそれが卒業論文として提出したものである。
 その評価もまた、教授間で認められないとする議論もあり、紛糾したそうである。今田先生が随分と弁護されて、型破りの卒業論文が認められることになったそうである。そして、卒業に当たって、先生からご自分の戦前の研究の別刷りと博士論文をこれが最後の一冊だけだと、渡していただいた。呈今田敬一の銘をしていただいた。森林美学はそれからやっと学ぶことになったのである。あとから知ったのだが、卒業論文を指導していただいた頃、今田先生は北海道美術史の大著を執筆されていて、絵画の世界との関係をまとめられていた。

今田先生の悲哀
 今田先生から支笏湖の国立公園における森林景観計画の報告書を見せていただいたことがある。支笏湖から見える森林景観は火山湖の内側の山腹の森林を原生林として保全するものであった。今田先生に内側だけ森林が保全されても、湖が広大な森林の中にあるとイメージされないのではないか、張りぼてのような森林景観は納得できないと申し上げると、先生も困った様子であったが、何も言われなかった。実は既に、外縁の森林は伐採され、広大な天然林は確保もされていなかったのである。先生が内側だけの森林保全を推奨したわけではなく、内側だけは確保することしか出来なかったといえる。森林美学の大家である先生に、現実はそのような森林景観の計画しか提示できないようにさせたのである。
 今田先生は戦中を勿論、戦後、森林美学の研究の筆を折ってしまわれた。戦後、植林が進められたが、戦後、奥地林の開発も進められた。北海道は多くの開拓の再燃とともに、森林の資源開発も進行したのであろう。館脇先生の講義で石狩湾を広大に囲んでいたカシワ林があったことを聞いたが、もう微々たるものに変わっていた。そんな状況は森林美学の適用に今田先生が空しくなっても、おかしくはなかったのだろう。