森林と原野

はじめに
 ふと、古本屋で手に取った本が、更科源蔵「北海道・草原の歴史から」だった。更科氏のご両親の代に入植され、北海道の開拓農家の生活の体験が最初の文章で、それに惹かれてその本を買った。最初に入植した原野は海岸よりで、不毛の地で、蚋などに悩まされて、山奥へと移動したそうである。移動した場所は豊かな土地ではあったが、そこにも原野があり、開拓からは取り残され、その原野が氏の幼少の頃の親しまれた自然であったということである。北海道の開拓にとって、森林が障害であったばかりでなく、原野が障害となっていたことは、現在も残っている原野を考えてみれば、当然のことでもあったのだろう。原野から考えれば、森林は開拓の障害ではあっても、開拓の後には沃野が獲得できたであろうが、原野はただ、利用されないままに残される他は無かったのだろうか。
 内地の平野も開拓の原初の時期はあったのであろうが、例えば、大阪平野などが芦原であった時期は、弥生時代に遡るのであろう。静岡の登呂遺跡、平城京平安京に使われた、スギの巨木は、周囲の原生林の存在を推理させるものとなっており、はるか、昔の開拓民も原野と原始林の自然に立ち向かっていたのであろうか。沃野となった平野、野と林で親しみ深い山野には、厳しい原野や原始林の面影は遠のいている。歴史を経た人類は原初に向き合った原始の自然、原と森から、親しまれる野と林に、自然を改造したと言ってよいのであろうか。

野と林の衰退
 工業化社会の現代文明が、人類全体に支配的な影響を及ぼしている。農業の工業化も進行し、自然を圧倒的な人為の力で支配することが可能となっている。しかし、その自然への支配力は、自然に破壊的な影響となることも多い。農業文明が作り上げた野と林は、工業化されるか、無用なものとなって、急速に変貌を遂げている。どのように変貌しているのかは、社会構造的な変動の一部であり、その表層の風景でしかないが、過去の風景と対比するとき顕著であり、その急速な変貌に驚かされるだろう。人類の原始時代は数十万年、農業文明が数千年、工業文明は300年にもならない。この目まぐるしい現代の変化は、激しく、行き着く先がどこなのかが、不透明で、世代ごとに変転している。だからこそ、人類の共通した理念で見出す世代を超えた展望が必要ではないだろうか。こうした展望から日常的な風景の変化に注目し、地域で個々に取り組み、共同して破壊的状況を克服する方策を見出すことが必要なのではないだろうか。野と林の衰退への対処もその一つと考えられる。
 原野が大規模な干拓によって失われ、野は利用されずに放置されて森林化し、林も利用されず、手入れがされないまま、放置されて、人が入ることも出来なくなってきた。どのように、これらに対処するのか、手を束ねて見ているだけであることは残念である。野が森林となり、林が自然状態に還ることは、それでよいのか、また、簡単にそうなるのだろうかという疑問が湧く。簡単な結論をえることは危険である。しかし、何か、抜け道を見出す必要がある。