神部氏の造園論

はじめに
 神部氏は古くからの友人ではあるが、会うことは久しくない。しかし、神部氏が著書を出すたびに、送っていただき、書評を期待された。これまで、ろくな書評もできずに、申し訳なく思っている。送っていただいた3冊の著書を最近、見返してみて、神部氏の目指した造園論が何であったか、を考えてみた。、「設計分析入門」修成学園出版局1996年、「語りかける文化遺産吉川弘文館1998年、「森は一体の巨大な生き物」修成学園出版局2004年である。最近の論文も送っていただいた。
 最近の森林と文化的景観の論文で、私の社会構造的な面からの理解の仕方に反論されたが、その論文の価値を評価する仕方の問題で反論のためではなかった。3つのの著書は神部氏ならではの実感に即した独自の論拠に立ったものである点で、独創性があふれたものであり、観点の鮮明さと真摯な取り組みの重要性を教えてくれる。

神部造園論
 それぞれの著書や論文は完結したものではあるが、3つの著書が神部氏によってどのような位置づけで、構成されているかの、仮説を立てようというわけである。造園家であり、造園論者としての神部氏の思考の道筋を外部から推定してみようとする試みである。その仮説の検証は、神部氏の思考に合致するかだけであるが、それを聞き出すための話し合いの前段となるだろう。
 造園論追求の時系列として考えれば、最初の設計分析から語りかける文化遺産は、設計分析の根拠として文化遺産が位置づけられる。設計分析では、内的なイメージの外化として設計をとらえ、イメージの根源的な根拠を自己の子供時代や歴史的な古代に求めて探索している。それ故に、文化遺産が設計の根拠の一部であり、設計イメージの根源の観点として、解釈することへと関連したのであろう。そして第三の著作、森は一体の生き物は、古代から遡る原始の、子供時代から遡る生命の象徴として、根源的なイメージとして取り上げられたと考える。そして、現実の根源的な森林のイメージは社寺林に見出すことが出来るとの帰結となるのではないだろうか。神部氏の子供時代は、古代文化からの連続性を持つ京都であり、また、京都には社寺と周辺の山地によって豊かな森があり、また、森林が涵養する水にも恵まれている。神部氏の根源的とするイメージは、神部氏自身の中に内包されている。そして、神部氏の出自が庭師の家であったことは、根源的イメージを外化する方法をも受け継ぐことが出来たのである。

神部氏の造園設計
 神部氏は修士の修了後、大阪府の技師となって、久宝寺緑地を担当していた。その頃、緑地を案内してもらったことがある。そこに木の屋台が組まれていた。今では珍しくはなくなった滑り台やジャングルジム、小屋などを複合した木造の遊具施設である。最初、それを見たとき、なんとも形容しがたいものを見出した。芝生の広がりの中に忽然としてあり、子供が大勢群がっていた。当時の神部氏はそれがどういうものとして作られたかを、言葉では説明しなかったように思う。ただ、思うがままに作ったのだという。そうしたら、いつも、子供が集まっていたというのである。著書の中では、それは木鉾と名づけられている。京都の祇園祭宵山のイメージと重なっているという。なんとなく素朴さとともに、優雅さが感じられたのは、神部氏の京都人としての素養であったのかもしれない。また、子供を惹き付ける根源的なものが、その作品に現出していたのであろう。神部氏の正直な、素朴な人柄そのものが、そうした設計を生み出したのであろう。神部氏の造園論は、そうした設計作品と一体のものであると考えられる。
 造園設計は設計者の独断によって生まれ、独断の成否は、結果としての評価にかかっている。そして、評価された作品として客観化され、作品を構成した設計論の正当さが認知される。しかし、作品への批評は利用者の評価を経ないで、批評家の独断で評価されることが多いのではないか?作りっぱなしで、利用がされようが、されまいが、無関心な状態、結局そうした無責任な設計は、利用されることは少ない結果になることも多いのではないか。神部氏の作品が、誰かに評価されたことは聞かない。こうして利用者が評価する、評価に値する作品を見落とすことになるのではないだろうか。造園設計の技術的、芸術的な向上は、評価なくしては達成できないだろう。こうした点で、造園界の大きな立ち遅れを感じる。