イメージと記号の深い森から

はじめに
 感動的な「カント」の著書、坂部恵:「カント」講談社学術文庫を見出した。その最後の言葉がこのブログの表題である。カントが追求した問題は、現代にこそ問題となっている。哲学的思考を音楽のように感じ取ること、を著者は期待し、レヴィ・ストロースを引用している。一度読んだだけで、十分な理解が得られていないが、言葉を追った理解に既に限界があることを、音楽のように感じ取るという表現が示しているのかも知れない。
 ところで、この表題とした言葉、イメージと記号は深い森のようなのであろうか?錯綜して、整理のつかない日常的情報を突き詰めれば、深い森の持つ秩序に到達できることを示しているのだろうか?カントはイメージや記号を分析し、深い森の秩序を持った体系を見出した。しかし、その哲学的思考が言語で構成されているところに限界があって、著者は音楽のように感じ取ることの必要性を喚起している。

深い森のイメージと記号
 喩えとされた深い森からはどんなイメージや記号が生じるのであろうか?レヴィ・ストロースが取り上げた原始民族の神話がそれなのであろうか?深い森で生きる人々は、共同して生きる上で事物をイメージとし、イメージを記号としてコミュニケーションを取る必要があったろう。そして、それらの記号から仮説的な森の理解ー世界観を作り出したのであろう。
 原始的な環境で生きた原始人は、その森とともに古代人によって排除され、森の記憶はわずかな神話の中に生き残ったのであろう。原始人や森の神話が現代社会とどんな関係があるのか、レヴィ・ストロースの考えはまだ、理解できていないのだが、現実に目の当たりにしている森林の現状から考えていこうと考える。