サクラの凝人化

はじめに
 花咲く季節にサクラは単なる樹木ではなくなる。あまりに艶やか過ぎて春の精のようである。人々は浮かれ出て、花の香りに酔ってさまよい歩いているようである。花の咲く前は、ごつごつと黒ずんだ幹は決して美しくは無かったのに、花が咲くとその幹も地中からの老練な手に換えられてしまう。サクラの若木の幹はつやつやと美しく、健やかな葉はすがすがしい。しかし、花を咲かせるようになると、幹はすっかり痛んでしまう。ソメイヨシノは特に早く衰えるようである。長命なエドヒガンにオオシマザクラがかけあわされてできたといわれ、接木で増殖された、人工の花のせいなのか?花はどの木も同じ色で白っぽい。同じ色であるためか、季節全体が花で満たされているようなのだ。一方、山に点在する野生のサクラは孤立して健気に枯れ木の林を盛り立てようとしているようである。
 桜餅は昨年の若葉が使われているのだろうが、塩漬けにされた葉が餅を包んで、花の香りよりもよい香りである。小学生の頃、戦後の木材不足で作られた机がサクラの木であった。赤い木の色に香りも花の香りがした。木は柔らかく、机の表面には傷がついたが、その肌触りは春の暖かさをもっていた。サクラは類稀な木であると、花の季節と共に感じる。そして、秋になって、紅葉の赤さに、別の華やかさを見出すのである。
 サクラの花は、突然の花吹雪に変わって、僅かなうちに消え去ってしまうだろう。その潔さが軍国主義に利用され、特攻隊の若者が散って行ったことを忘れてはならない。春爛漫の花の中、西行法師はそこに死ぬことを願ったそうである。サクラは日本の花といわれ、様々な思いが、重なり合っている。今の人、昔の人、あちらの人、こちらの人、あの時、かの時の様々な思いが、あるのだろう。そんな思いを越えて、一瞬の華やかさが時間を超越して、その存在を誇ってるようである。しかし、この魔術のような時を過ぎれば、サクラだけが存在を誇っているのではないことに気がつくのである。

「日本一の桜」
 桜について多くの本が出されているだろう。日本人には昔から花見が行われ、現在も一層盛んであり、桜が好きな人が多いためであろうか?丸谷馨さんの「日本一の桜」講談社現代新書は、著者自身の桜好きが現れている。日本一の桜は著者には著者の生まれ故郷の弘前の桜であることが察せられる。私は弘前の桜を見たことが無いので、日本一なのかは分からないが、著者の思いは感じられる。桜はしかし、衰えやすい。今を盛りの桜は、その時がどこにあっても、そこにしかないという意味で日本一なのであろうが、たちまちに盛りを過ぎて、その時の評判ばかりが残っているのであろう。老木の技が花を咲かせるのではなく、若木の生命力が春を謳歌するのではないだろうか?丸谷さんの本は桜の好意に溢れた本である。桜にとって、こうした好意が桜を栄えさせている。

桜の老木
 老木を生きながらえさせる技術がある。医術の進歩が人間の命を永らえさせる様に。幹の芯が腐り、洞となって樹皮によって支えられたような老木。それは確かに根強い生命力に感動を覚える。しかし、それでも寿命きて、若木に種の存続を託して枯死する時、それを受け入れることも桜の美しさを保つ上で、大切ではないだろうか。桜は美しいために好まれ、その美しさのすべてが燃え尽きた時が、寿命なのである。

枝垂桜
 枝垂桜は単木でこそ、際立った美しさを発揮する。枝垂れた樹形に、神や魂の下降や上昇を見出したであろうことを柳田國男が推論しているが、花で覆われ、地にかぶさるような枝垂桜が神秘的に感じられることはまちがいない。

まとめ
 意志を持たない植物、その植物に人間は感情を移入し、あたかも、人間に意志を持って働きかけるような存在に感じる。それぞれの植物の特徴が、人間の感情に即応していて、人間を慰め、楽しませるような力を発揮する。これは、人間自身が植物に好意を持つことの反映ともいえるだろう。一年の内に変化を見せる草花、人間よりも長命な樹木、それらの生命の変化と人間の生活の過程が織りなして生じる触れ合いは、こうした様々な感情を呼び覚ます。桜はそうした植物の中でも、日本人にはとくに関わりが深いのであろう。その思いが、こんなにも桜を栄えさせ、この春爛漫の喜びとされるのである。まるで、原始人が自然に感応するように。