野は緑

はじめに
 土がむき出しの荒れ野が、いつのまにか緑に被われていることに突然に気づく。荒れ野ではなく、緑豊かな野原だったのかと、しかし、もう少し立つと農家の人々が、働き始めて、畑へと変身していくのだろう。広大な野原が農地へと変身する。そして、また、枯野となるのだろう。
 野原は果樹園の下に、落葉樹林の林床に進出して、地表面は野原で出来ていることを主張している。今の季節は野原の天下なのだ。柔らかい草を踏んで歩くのも楽しい。様々な草が所狭しと地面の隙間を埋めている。地面の緑が、もう、潅木へと飛び火し、やがて、果樹や落葉樹林を緑としていくことだろう。冬の長かったことに比べて、春は目まぐるしく、植物の花を咲かせ、葉を開かせる。虫が飛び交い、鳥たちは既に鳴き交わしている。

詩は哲学を超える
 歌や詩は、こうした自然への喜びなのだ。自然の変化が一瞬のものであることを、人間は経験して知っている。この一瞬を喜びながら、労働の準備をはじめる。歌や詩は一瞬の喜びを全体の流れの中に位置づけている。詩人は人々の歴史を伝え、未来を予言することができる。吟遊詩人は荒れた世の人々に過去の栄光を思い起こさせ、人々の生きる意欲を喚起させる。哲学者の思考は、詩人の直感に追いつけない。何故、シラーが、ハイネが、哲学的な文章を残しえたのか。また、科学者よりも自然の鋭い観察ができたのか。この春の一瞬が教えてくれる。
 しかし、哲学者が詩人となり、科学者が芸術家になることはできない。そう確信しているのだが、なぜだろう。批判的、客観的な視点を持つことによって成立する哲学や科学が、直感的で、主観的となることは、自己を否定することになる。一方で、哲学者、科学者にも春は楽しめる。それは、哲学や科学から離れて、人間に還っているからであろう。批判は懐疑であり、客観は内面の感情とは無関係であることだからである。
 ヘーゲル以降に哲学は喪失したと言われる。マルクスによって精神と物質が逆転したことを指しているのだろうか。詩が哲学的であったように、経済学が哲学的であり、心理学も哲学的となりうるのが現代なのである。哲学が喪失することによって、様々な芸術、科学に哲学が存在しているのであろうか。これは、現代に科学や芸術を超えるなにかが、生まれようとしていることの予感なのであろうか。あるいは、もう既に存在しているのであろうか。それは野の緑を超えるものではないはずである。