山村生活の交換価値から使用価値へ

はじめに
 資本論の全貌を早く分かりたいと、的場昭弘超訳資本論」を読みかけている。商品の価値は、交換価値にあり、交換価値の中に使用価値が含まれている。商品を購入して成立する消費生活は、生活における使用価値の実現といえる。消費に関わらない生活上の使用価値は、商品ではない点で、交換経済の領域を離れている。交換経済を離れた自給的生活は、資本主義経済の影響を受けないで済むといえるのかもしれない。山村の孤立した生活は、経済社会とどれだけ無関係でありうるか、は山村住民の生活方法に関係しているといえる。経済社会から離脱するためには、山村の自然環境を資源として確保し、自給のための資材に利用することである。山村に進出した商品の度合いは、自給的生活の反面的な目安である。
 自給経済が交換経済に飲み込まれていくのが、あたかも必然的な変化であるかのように、進展した。戦後の山村の過疎に至る過程はそれを示している。この過程に抵抗的に山村の自給的生活文化を確保したところは限られているのではないだろうか。しかし、すこしでも確保できなかったところは、不便な山村に留まる必要性がない。少しは山村自給の文化が確保され、さらに意識的に確保された地域に、交換経済に対抗する、使用価値を自給する生活が見出されるのであろう。

都市生活の限界から山村自給への活路を
 山村の生活は限界に達しようとしている。しかし、都市生活も限界に達しようとしているのではないか。限界に達した都市が持続するために、山村の資源が利用されてきた。その過程は資本主義経済の進展そのものであるのだろう。その限界が地球規模に達しているのが現代である。地球の限界は、国の限界に、国の限界は都市の限界へと逆流してくる。こうした時、山村の限界とは何であろうか。都市の発展が、山村の限界を生み出したのだとすれば、都市の限界が、山村の限界を克服する要因となるではないだろうか。都市発展から取り残されて、過疎の限界状況にも持続してきた山村が、都市の限界の中で、限界が解消していくのではないだろうか。こうした期待は、ユーカラー・ツウィッターの論議に示されている。