都市空間の場所に場面的な意味を見出す可能性

はじめに
 「場所」は造園、環境心理学、その他の分野で問題とされている。風景は一つの知覚形式であり、近代社会の主体の意識に適合した形式であることを、かって論じたことがある。しかし、同時にその知覚形式が主体の位置する場所からの場面であることを追求する必要があることを、指摘していたが、未だに果たせないでいる。環境心理学の格段の進歩とともに、場所の概念の重要性が明らかにされている点で、私の考えていた場所にとっての場面の問題を追及する時期が来ていることを感じている。場所が英語で広場と同義語である点で、様々な人々の立ち入る場所として社会的存在として問題とされるのであろう。一方、場面は個人的な行動における場所とそこに生じてくる主体の状況の問題である。場面が演劇の一幕に由来するように、主体が演ずる舞台を意味するものといえるかも知れない。様々な人々が集まる場所、その場所は個々の人には場面であり、ある状況を演じているのである。しかし、その場所が変われば、個々の人々の行動はどのように変わるのであろうか?公的空間と私的行動、社会と個人の関係がそこに介在するであろう。
 広場論においては共同体の中心となる空間として問題となり、広場は共同体の成員の集合の上で必要な空間であった。近世市民社会としての都市空間には、それ故、都市広場は不可欠であった。しかし、近代社会は近世都市の領域を簡単に衰退させるとともに、平等な個人の意識による自由が問題となった。自由な個人を結ぶ共通項に、自然科学の進展によって理解された自然環境があり、そこに、ロマン主義的な飛躍による風景の知覚形式が成立したのではないだろうか。一方で、農村社会の解体と産業都市の進展とともに広場空間も単なる交通空間として市民生活の中心となる意味を喪失したのではないだろうか。

都市公園から緑地の必要性
 近代的都市に都市公園が必要となったのは何故なのであろうか。近代都市の環境悪化がその原因とされることが多い。イギリスのロンドンでは19世紀になって庭園やパークの公開により、公園が設定されるようになった。アメリカではニューヨークのセントラールパークの建設から堰を切ったように各都市に公園が設けられていった。日本でも明治維新の明治6年には公園設置に関する太政官布告が出されている。公園は都市の環境浄化のためだけでなく、近代市民生活に自由に使える自然環境を必要としたのであろう。それは人々が集まってはいるが、集まることが目的とされる広場とは別個のものであったといえる。共同体とは逆に、個人的な自由な行動が目的であり、民主主義社会に適合するものであったと考えられる。そうした社会の到来の予告となる啓蒙主義の時代にも、公園が姿をあらわし始めたのであろう。その公園の姿は、自然愛好の意識からの風景式庭園の様式が合致してもいたのだろう。
 しかし、近代市民社会は資本主義経済の進展と結合しており、個人の平等と自由は、現実的には階級的な格差と労働契約における制約が社会問題となって現れた。人権的な社会改良によって一定の生活水準の向上がなされるとともに、都市生活空間の機能的な整備が20世紀になって現れてきた。そして、安定した社会発展に近隣社会の重要性が再認識され始めたといえる。公園は近隣生活システムの重要な要素として制度化されたといえる。これは、人口増加と都市への人口集中からの破壊的影響への対策としても必要であったろう。こうした近隣生活システムによって組織づけられた都市空間を実現するために、緑地空間の小から大へ、また各緑地を連続させた緑地系統もまた必要となってきた。そして、拡大する都市を郊外緑地に分散させることも行われるようになった。
 現代における公園からの緑地系統と緑地における都市分散は、都市空間の無秩序な拡大からの転換であり、市民が自己の居住する都市空間全体を生活場面として意識する可能性を増大させるものといえるだろう。

広場の再生と創造
 広場が道路によって結合し、直線的な道路から広場への導入は効果的な透視図法を生み出した。広場を中心として放射状につけられた街路は、中央集権的な体制の空間的な具現化であった。ルネッサンス期以来の市民による都市共同体は、専制的な王権の支配下に置かれ、広場は街路の軸へと変換し、さらに自由経済進展の時代となると、都市内部の街路は国土空間に広がる道路網の結節点に過ぎなくなり、広場は単なる交差点へと変換した。流通経済の進展は市場広場を縮小し、商店街へと変貌させ、政治的広場も直接民主主義のための市民や国民の集合は、間接民主主義によって選挙運動へと転換した。広場は歴史的な遺物となったのであろう。
 都市における市民の集合は、通勤や消費の経済活動に伴う自然発生的事態として、流動として空間が形成され、共同体を意識させる集合の場所が喪失していったことをドロレス・ハンデン「場所の力」は記している。場所の喪失は場面の集中を失い、流動化をもたらすものとなっているだろうことが考えられる。都市は巨大な建物と街路が人々を集合させ、流動させるシステムといった感がある。
 ヨーロッパの歴史的な都市広場は、狭い街路の自動車交通の盛行の中に生き残り、市街から歩行者のために自動車を排除するようになって、復活し、市民生活の憩いの場として機能を復活させてきたのであろう。広場の地下を駐車場とし、劇場などで囲まれた広場にきらびやかな大理石で舗装している所を20年以上前に南仏の都市で見かけたことがある。市民の歴史性をもった生活環境として広場が中心性を持ち始めているのであろうか。
 日本には都市広場の歴史は見られない。安定した市民生活に市民の交流の場となる広場は生じているのだろうか。最近、大型店が連結した大規模な複合した大型店施設が作られている。食料、電気器具、書店などが一箇所で買い物ができるので、大勢の人が集合している。都心にあった人々の集合が郊外の大規模駐車場を中心とした複合施設に移行しているようである。それならば、いっそのこと都市が一つの建物となればすみそうである。こうした空間像もかってのユートピアであった。しかし、そこには、個人生活を喪失した共同体が空想された。日本ではそれが経済活動による自然発生的なものとして出現している。かくして、民主主義の象徴であるような広場が、生活中心へと移行する中で創造される可能性は遠のいているのではないだろう。