外界から印象づけられる事物の知覚構造(カント風に)

はじめに
 日々の生活に生じる事物への印象は様々であるが、意識することに狭められか、意識していないが事物から喚起される印象かであり、行動している環境からすれば、一部にしか過ぎない。見ていないことが多いということと、人によって同じ環境で異なる印象を受けることに関連している。人が同じ場所で同じ印象を共通して持つためには、意識に共通性があることと、同じ場所での経験の頻度が部分的印象を集積して環境の全体像に近づけるのであろう。
 環境の全体像が分かっているならば、限られた経験もその全体像のどの部分であったかに気づくといえるが、良く行く場所で意識によって見たものと見落としたものを判断するとわかることであろう。主観的な視点は部分的であり、客観的な視点が全体的であるというのは、個人の経験が集団によって共通性を持つことによって客観性を確認できるという社会的な問題であるのだろう。
 事物と空間は、なまかじりのカント哲学の理解であるので、今後、是正する必要があることは確かである。少し、考えの整理の上で論考しておきたい。

事物の空間知覚
 環境は多様な事物から構成されており、それらの事物によって空間的広がりを持っている。個々の事物自体も体積的な広がり(空間)を有し、かつ広がりの中に存在している。事物が集合して大きな空間を持つと、その大きな空間にとって個々の事物は部分となる。例えば、砂利道の全体に個々の砂利は部分であるということである。また、森林に個々の木々は部分であるということである。道や森林が有機的結合した組織であると見なされると、部分は細部となる。有機体として一つの生物を考えると、その組織は細胞を基礎とした緻密な組織で段階的な部分の構成によって全体が生じている。それらの生物が相互に関連して集合体を作り、また周囲の空間と関連した環境を形成していくと考えると、環境の有機的な全体像が想定できるのだろう。ダーウィンの進化論はこうした環境の有機的な全体像が前提とされたといえるのだろう。
 しかし、事物の集合は見かけ上のものであり、そこに組織的な関係があれば、細部といえるが、そうでなければ、集合した全体の部分に留まる。空間の中での事物の集合は、空間知覚の要素である。要素が空間の細部であるかどうかは分からないことである。われわれは事物に接近すると事物の細部が知覚でき、離れると事物を集合とした要素が知覚される。空間の知覚は、視野における眺めであり、事物からの遠近で遠く離れるほど多くの事物が知覚される点で視野が広がることになる。しかし、多くの事物は集合し、個々の事物は知覚されなくなる。視野の焦点は視線の中心である。視線の中心に注意が集中してその部分の事物の範囲が少し鮮明となる。

知覚空間の構成
 知覚される空間自体も事物による要素によって構成されている。遮りのない地上の広がりは、地上の面的広がりに、天空までの大気が広がる。開放された視野における地と天との要素である。地上の遮りが近接して存在すると距離に対する遮りの高さが壁となって視野が閉鎖される。地面の視線の範囲が壁までの距離によって限られ、天空が壁の高さによって限られる。地面、天空と壁が山脈、森林、建築物や施設などの要素となって視野が構成される。壁が近接するほど、壁要素の事物の細部が知覚される。

奥行き空間
 ヴィスタによる奥行きの知覚は、パースペクティブ透視図法と呼ばれる。閉鎖が前方に開放されて、両側が閉鎖されて前方に方向付けられた眺望が生まれる。至近景、近景から中景、遠景へと連続する知覚である。近景を前景として中景を、中景を前景として遠景を知覚し、逆に、遠景を背景として中景を、中景を背景として前景を知覚する。さらに、進行によって遠景は中景となり、中景は近景となるシークエンスを形成する。