野山から里山そして山林への変遷

はじめに
 戦前に四国に生まれ、戦後に育った私は、小さな頃は食糧難で、農村への買出しに両親に夜道を歩いたことを覚えている。港や山が歩くには遠いところにあったが、子供には長い1時間近くかかるところを、時々、友達同士で駆けていったことも覚えている。私の祖母は明治生まれで貧農の家で学校に行くこともなかったが、畑を作り、山に出かけて、ワラビやゼンマイなどの山菜、神棚、仏壇の供花を取ってきたので、一家はひと時、餓えを逃れることが出来た。その祖母にも連れられて山に出かけたことが、山を親しんだきっかけといえるのだろう。小学校の遠足も付近の見晴らしのよい山であった。そうした山はまだ小さなマツや潅木が点在する禿山であった。
 桃太郎の昔話に、おじいさんは山へシバ刈りへ、おばあさんは川へ洗濯へは全く実感できる時代だった。おじいさんの背負ったシバは、潅木や枯枝などで、燃料としたのであろう。そして、その牧歌的な様子はいつの時代へと遡るのだろう。以前、中国に庭園見学旅行に参加して、清朝の皇帝の別荘地であった避暑山荘に行った時、手押し車にシバを積んだ住民を見かけた。避暑山荘のパンフレットの写真には植林された山地が背景に写っていたのに、その山はシバの採取場になってしまったようである。これでは山が森林となるのは程遠いことだな感じ、また、シバを採取する牧歌的な生活は普遍的なことを実感した。
 子供の頃、遊んだ禿山は、季節に彩られ、野山と呼ぶにふさわしいものだった。そうした野山は隣接した村が燃料や堆肥、山菜などを採取して利用した共有林、入会地などであったのであろう。明治になって個人に分割した所は個人有林になっているだろうが、農村には農地だけでなく草山が不可欠なものであったことは確かである。水本邦彦:「草山の語る近世」はそのような草山の来歴を教えてくれる。

パストラルな美
 最近、清水さんがザリッシュの施業林の美の成立に、パストラルな美からの転換を意味づけることを注目している。パストラルは古代のローマ詩人ベルギリウスに由来し、イタリアの禿山風景を描いた風景画を通じて、実像化し、理想化されたものと言えるのであろう。イギリスの風景式庭園、ドイツでの啓蒙主義の時代の風景式庭園の導入に理想的な美がパストラルであり、ルネッサンスによる古代への憧れであったのであろう。
  しかし、そのパストラルな風景は庭園の外にあることに気づかれた。庭園の外にあったものは農園であった。その農園は中世の農村では領主と集落の関係のもとにあり、囲い込み運動とともに、領主―貴族の土地に集約されたといえる。その中には共有地も含まれていた。こうして貴族の所有地が確立するとともに、農園経営が成立し、その農園の合理的な土地利用と風景式庭園の拡張が接続した。丘の草地には木立や潅木の群落が変化を生み出し、まさにパストラルな風景が生じたといえる。
 ドイツにおける農奴解放の法令は19世紀初頭のナポレオン支配下で成立したが、かえって近代的な土地所有を促進し、農村の崩壊を招いたのであろう。ドイツ東部ではユンカー貴族による土地所有が促進され、産業革命の進展と平行して、農民の流出が増大したとされる。それでも近代化の達成はビスマルク時代であった点で、農村社会の名残はザリッシュの時代にもあったであろう。共有地やパーク狩猟地などの土地利用などに見られたと考えられる。そうした名残が近代以前の風景をパストラルな理想風景に近いものとして見出されたのではないだろうか。しかし、それは近代化の中では無用になり、廃れ行く風景でもあったろう。清水の注目するパストラルな美の転換の社会背景の一端はこうしたことがあったのではないかという仮説である。
 日本における草山の喪失は、第二次大戦後、高度経済成長とともに顕著になった。石油工業の進展は、草山の燃料、肥料の資源的価値を減少させ、草山を遊休地化させた。私の経験した草山のパストラルは消え去る運命となった。ススキが原がたちまち松林となり、放置された薪炭林とともに、やがて広葉樹林が育ち始めた。都市近郊ではこうした山地は山麓から開発が行われ、湾岸の埋め立て用土砂採取のために土とリ場とされたところも生じた。

里山の拡大造林
 農業と生活資材の採取場であった山地が放置され、森林化すると、広大な山地を里山として問題となった。奥地林開発によって森林資源が枯渇していくと、これを補う、森林資源育成も問題となり、里山を人工林に転換する政策が浮上した。大々的な人工林化が拡大造林の政策で進められ、回復した二次林も人工林に林相転換された。もはや、パストラルな草山風景は畜産などで維持される草原に限定され、畜産業の低迷や放牧地などの放棄から、そうした草原風景も衰退して行った。それに代って人工林を主とした風景が支配的となった。人工林化した里山は、林業生産を主眼にした風景に転換し、生活資材を得る親しみ深い里山のイメージから離れたものであった。
 その後の林業の低迷は、里山における林業生産の成立を頓挫させ、人工林を放置する結果となった。放置された人工林を、薪炭林、雑木林、広葉樹林などのイメージに回帰させることが問題となっているのではないだろうか。しかし、そうしたイメージの里山はどれだけ存在していたのであろうか。折角、育った二次林を伐採して人工林化し、今又、その人工林を広葉樹林に転換することは、大きな損失だろう。

皆伐による山村の人口減少
 里山から奥地に入った山林を奥山と言うことが出来るだろう。奥山は農村で利用しにくい場所を天然林として残したといえるかもしれない。一方、封建時代の農村では領主による木材利用のために農民の利用が制限されて、森林として維持されたのかもしれない。明治になって奥山の所有が国有となったところが多い。奥山は農村の直接的な利用地ではなかったが、里山の奥地に残る資源として、農村の環境と社会を持続する何かの役割があったのではないだろうか。
 戦後の資源不足は、国有林として保続された奥地林の開発を進めさせた。大規模な林業開発は奥地の山村を活気づかせ、人口を増大させた。しかし、それは一時的であり、森林資源の枯渇とともに、そうした林業人口は移動していった。そればかりではなく、山村住民が林業に従事していたことで、森林資源の枯渇は住民の生業の場をも奪うこととなった。高度経済成長は都市への人口集中とともに山村の人口流出による過疎問題を顕在化させ、この林業の地域的衰退はこうした人口流出を内的に促進する要因となったことが推定される。
 こうして奥地林の喪失は、山村の衰退の要因にもなることによって、里山の利用の衰退の要因ともなった。奥地林の皆伐跡地の植林による人工林と里山の人工林化が連続して見ると、広大な山林の広がりが山地の風景を作り出している。こうした山林を里山に取り戻すにはどうしたらよいのであろうか?そしてまた、パストラルに代る森林美は何であろうか?清水論の展開が待たれるところである。