生駒山の表裏

はじめに
 人は物事、事物の表層しか知覚していないのに、その内部までも知ったと思い込んでしまう。そして、その内部は実は全く知らないのだ。後から内部の事実に触れた時に初めて、何も知らなかったことに気づく。しかし、その内部の知覚も以前の表層に当たる内部であって、現在の知覚は後で知ることになる表層に過ぎない。生駒山といった広い山地も大阪平野から見れば、全体的な景観として知覚できる。しかし、その背後の谷間については知らない。その背後は昔、紅葉で有名な竜田川からさらに上流の生駒川の流域となっている。そちらに、姉の家があるので、大阪側からは裏であっても、奈良側からは裏が表で大阪側は裏となる。生駒山系を大阪側から1967年に緑化対策のために調査し、報告書の作成に加わったことがある。裏側の姉の家を拠点としたので、奈良側と大阪側の相違に気づかされた。大阪側が都市拡大の波が及ぼうとしており、奈良側はまだ、山間の山里の雰囲気が残されていた。
 あれから、ほとんど半世紀近くを過ぎて、生駒川流域の開発は進み、大阪側は市街化が山麓を上がってきている。この時間の経過も、半世紀前の現実からは、予測もつかない未来であったといえる。しかし、現在から過去を振り返る時、過去もまた風化して見えなくなっていることに気づかされるのである。大阪府みどり公社:「生駒山」を入手し、ページをくってみて、過去の風化ぶりに驚かされた。「生駒山」は地域活性化の検討から書かれたというのである。

1967年生駒山系緑化対策から
 生駒山系が金剛生駒国定公園に指定されたのは、戦後であるが、大阪近郊の山地として戦前から保養地となり、生駒山にはケーブルカーが通じる観光地であり、また、ハイキング地として利用されてきた。私も高校時代にハイキングに出かけたことを覚えているが、日曜日に大勢の人が山道を歩いていた。生駒山の山頂にテレビ塔が立ち並び、尾根をスカイラインが通じて、利用は増大していった時期である。
 それから10年も経たない内に、生駒山系の自然破壊が問題となってきたことは驚きであったが、それは大学に入学した昭和35年に始まる高度経済成長のひずみであった。大阪湾岸の工業地域造成や大阪平野の低湿地の市街化のために、大量の埋め立て用土砂が必要とされ、土砂採取が近郊の山地に向けられていった。市街や住宅地の建設は無計画に行われ、増大する需要に造成地は拡大するばかりであった。また、工業の拡大は公害問題を著しいものとしていた。「生駒山」に吉村氏が書いているように、大阪の大気汚染を生駒山を除いて、奈良盆地に流すことさえも話題に上がったほどであった。公害規制、都市計画、自然保護は、急務であったといえる。丁度、1970年を目指した大阪万国博の計画が進行していたが、その隣接地は千里ニュータウンの建設が進みつつあった。これは、工業化による人口増加に計画的な住宅供給のための開発であった。また、近畿圏整備法によって広域的な都市計画の対処も生まれてきていた。しかし、爆発的な都市拡大は、それによって生じた都市問題を、計画的に解決する方策を減退させていた。解決する目処は爆発的な都市拡大を抑制し、誘導することが必要であった。
 生駒山系はこうした都市拡大の前に山でさえも存続できないような末期的状況に思えた。国定公園であることは不思議なぐらいとなり、山麓、山地の農村集落の森林利用は減退し、森林が自然回帰していくことと土地開発によって荒廃していくことが、相互に関連して進展していこうとしていた。古きよき里山、手入れされた山道を利用するハイキング客の人影は山地から薄らいだといえる。「生駒山」で田中氏がその残存したスポットを紹介し、利用することを勧めていることは心強いかぎりである。

生駒山」の現在
 大阪府民の森が設定されたのは、高度経済成長、当時の乱開発を防止するための公有地化であったのだろう。吉村氏がその計画を担当したことを「生駒山」に記している。生駒山系緑化対策のその後として、当時、吉村氏が担当することになったことを聞いたことがあることを思い出した。どんな計画であったかは知らなかったが、生駒山系の開発に大阪府が土地取得で対処したことを喜んだことである。中村先生の提唱した自転車道路兼森林管理かつ開発防止の境界線の構想も一部は実現したようである。しかし、20年前ぐらいと思うが、奈良側から尾根を越えてハイキング道を歩いて、自転車道を越えて、山麓まで下った時、道路のの荒廃した様子やハイキング道の周囲の森林の繁茂で道が狭まり、出口も定かでないという状況に、ふと、府民の森の計画は何かと疑問に思ったことがある。
 昨年の夏、暗峠茶店で素麺を頂いたが、ハイキング客が結構多く歩いていたのに感心した。茶店にはそうしたハイキング客が常連となっている様子で、何度も同じ道を歩く人がいるそうである。そうすると、府民の森の利用も増加して、施設の管理も見直されたのかもしれない。

さいごに
 「生駒山」にとって残念なことは、研究にあたって参考文献となる生駒山資料がリストとして上げられていないことである。過去を継承し、現在を未来につなげるために、既存の資料リストを上げる必要ががる。過去を忘れ、現在の意味づけが出来ないことは、未来を見出すことが出来ないことになる。1961年の藤岡謙二郎編:生駒山地の人文地理は過去を知る文献であり、「生駒の神々」も面白い文献となる。生駒山系の将来はどうなっていくのであろうか。生駒山の裏側からの夜景は、いかに生駒山が人里であるのかを感じさせるものかと、姉が感嘆していたが、田中氏の里山論はこれと同様のことなのだろう。都市近郊の山地で昔ながらの人里を感じさせる不思議な山が生駒山といえるのだろう。この山に住む人々がいる限り、生駒山は衰退することはないのであろう。生駒山は衰退し、活性化の必要があると実態は知らないのだが。