生駒山系の棚田と里山

はじめに
 田中淳夫氏に会って、生駒山の棚田に注目させられた。奈良盆地大阪平野の古代の開発に関して、古島敏男「土地に刻まれた歴史」に詳しく、棚田の土手草と万葉植物との関係を見ようと、馬場先生と明日香村まで出かけたことがある。古代から中世、近世に連綿と続いたであろう棚田が、その地域の基盤として今日に継続していることは、驚くべきことなのであろうか。棚田は複雑な山地の地形を選択して利用し、詳細な水利施設とともに地域住民によって管理され、村(集落)を単位とする農村社会の持続が、共同的な施設を管理、維持させ、棚田を維持させたのであろう。そこで、大阪の近郊山地である生駒山に棚田が存続していることは、集落の共同的な関係が持続していることを示している。
 明治になって、農業は商品生産に傾いていったのであり、柏原のブドウ栽培、奈良側の平群の花卉栽培などが見られたが、ブドウ栽培はもう残ってはいないのだろう。水田は自給や農業政策のことで、持続してきたのであろう。

棚田と里山
 里山の共有と棚田の個人有とは村落共同体の中で、連結し、特に棚田の水利管理と沢、上流の水源、水田の厩堆肥の供給源として里山が不可欠であったであろう。燃料、資材にも欠かせないものであり、山菜などの食料源でもあった。これは、山村集落の一般論であるが、生駒山地のあちこちの集落の景観―土地利用を眺めて、里山が放置されてはいるものの、山地の尾根を中心に谷間の山腹に森林が見られ、その合間の日当たりの良い場所に棚田と畑地があり、谷底に広い谷田があるという、絶妙の配置を見ることが出来る。

 生駒山地の棚田と里山の配置が、棚田を今日まで持続させ、また、それによって集落を持続させて要因なのではなかったのだろうか。都市化とは異次元のような山村の景観が、大阪の市街に今日まで近接して存在していることは不思議に思ったが、長野県の農村部では、農村生活内部の都市化が進展することによって、里山が放置されることになっている点では共通している。かえって、生駒山地の山村風景の根強さがあるのかもしれない。
 しかし、今日まで続いてきた山村風景も、田中氏から教えられて、危機に瀕していることが理解された。棚田保全のための活動も行われているとのことであるが、次第に棚田が放置され、森林化しているとのことである。人が介在しない山地となって、ハイキングなどで利用することも困難になってくることもあるだろう。今後、どうなるか心配なことである。