民俗学からの山村風景

はじめに
 民俗学の祖として柳田國男が上げられる、その後の民俗学の継承者には宮本常一が著名である。伊那谷民俗学では向山雅重で、一度お会いしたことがある。野本寛一「生態と民俗」を読んでいるところである。民俗学は民間の伝承や生活習慣とくに言語の中から、過去から現在に継承された地域の生活構造を見出すものと理解しているが、向山氏の記述や話の中から、方法として地域の人々との話と環境の観察が重要であることを示唆された。山村の農家の庭を対象とした調査をしていた時、庭の観察とともに農家の人と話をしたのであるが、生活構造の僅かな示唆は得られるが、向山さんの努力の大きさを感じた。民俗学者となるために、果てしない経験の蓄積が必要であり、とても自分には及びのつくことではない。
 柳田國男の全集を購入し、散見して、民俗学を理解しようとすると、歴史的な文献資料を利用し、生活実体に迫ろうとしている。歴史学とも関係しており、古い文献の探索も必要であり、古文書を読むこと必要となれば、民俗学の広さと深さに大きな大きな隔絶を感じる。柳田國男によれば、フォークロアと呼ばれる民俗学は、ドイツではグリム兄弟によって開かれたそうである。民話の収集によってグリム童話が再現され、近代化で失われる伝統社会の一面が明らかになったということである。
 野本寛一氏は民俗学の果たす役割に、現在の環境問題との関連を指摘しており、それ故に生態と民俗が関係することになる。生活の実体が環境との交流によって成立とする以上、環境に生活の実体の反映を見ることが出来る。また、環境によって規制され、環境に適応する生活実体を読み取ることも出来る。何代もの、また、何十代もの歴史を構成する生活実体には、激しい人と自然との交流あるいは葛藤の厳しい過程があったに違いない。
 民俗学が地域住民の生活実体に迫ろうとして、深く環境と生活を観察し、そこから多くの知見を得て、生活実体を推理する可能性は大きいことは感じられる。だからからこそ、普通の観察によって得られる知見は、それ自体は真実ではあるが、そこからの推理は民俗学者の深い判断とはかけ離れているだろう。いわば表層の知覚である。しかし、また、民俗学者の洞察も生活実体の究極に到達できるものではない。その実体は生活者それぞれの中にあるからであり、学者の洞察も生活者への感情移入に過ぎず、仮説的な論理的判断なのであろう。歴史に起源を求め。民衆一般に普遍化して、論述され、地域住民の生活実体から遊離した途端に、その論理は仮説の論拠に解消しているように感じるのは間違いであろうか?

近代社会と山村
 北海道の開拓から現代への歴史は僅か数代のことである。北海道ばかりでなく、内地の人々も明治の変革から数代たつに過ぎないことなのに、幾多の人々のこの過程は伝承されることもなく、忘却のなかに埋もれている。僅かな人々の書き残された伝記に、近代の過程の一端を見出すものであり、民衆の大きな歴史過程の示唆が得られるだけである。近代は個人主義によって世代や近隣との断絶が生じて、民俗学の土台となる地域住民生活の共通項を失ったのであろう。過去の蓄積や地域を制約する自然環境の残存が辛うじて、その共通項を持続させるものであろう。
 人々の築いたものが、「風化される」。近代の目まぐるしい進展は、進歩に向かって過去を風化させ続ける。無名の民衆の生活過程が、時代を形成したのに、それは意識されずに、進歩へと風化させられている。厳しい環境が生活を規制する山村には、進歩は遅ればせとなり、過去の生活形態が相対的残存する可能性がある。しかし、それは山村の後進性として悲劇的に意識されるのではないだろうか。山奥の桃源郷のイメージが存在したかどうかも、都市への人口流出で風化していったのであろう。