風景における森林風景

はじめに
 風景は作ることが出来ない。地域における人の営みが生み出したものであり、それを知覚したときに風景を意識するものである。柳田國男は風景の成長でもって、農民の営みが作り出した風景を単純に楽しむ都会人を批判した。造園はランドスケープ・アーキテクチュアで呼ぶことになったのは、オルムステッドの活躍によるものである。都市の中に公園を作ることは、都市の風景を生み出すことになる。都市が街路空間によって構成され、街路が都市景観であるなら、公園が風景式庭園の技術で作られた時、都市景観とは異質な空間であり、都市環境からの避難所となったことであろう。しかし、そこに都市の風景が作られたわけではない。都市の風景は街路と街路に面する雑然とした建築物によって構成されたままであり、街路を行きかう人々や車とともに都市の活動の結果として生み出されたものなのである。公園の風景は、郊外の農業地域の風景であり、それが都心にある違和感を否定することはできないだろう。オルムステッドはそれでもなお、都心に農村風景を再現したのであるが、その公園内にベニスの水辺や街路樹のプロムナードによって都市風景を加味してバランスをとっている。それは公園が農村風景の単なる模倣ではないことを示したかったからではないだろうか。しかし、結局、風景を作り出すことには成功しなかったのだはないか。
 セントラルパークの中に動物園があるが、それぞれの動物の生息環境の風景を再現している。それは、風景のコピーである。人間の鑑賞はその風景を壊さないように隠され、そこから覗いて鑑賞するのである。しかし、野生動物はその野生の場所によってその生活を保っている。動物園の鑑賞は、野生動物の飼育された風景に他ならない。

風景の持続
 風景は人々の営みと意識によって成長する。営みの変化は風景の変化につながる。風景はとどまることができないといえる。風景を持続させようとすれば、人々の営みが阻害されないで、成長する条件を確保していくことである。自然の風景となれば、人々が自然の営みに代ってくる。