地域計画と流域管理

はじめに
 大学に入学した年は、安保改定をめぐり、学生のストライキとデモなどのため、講義の受講も出来ない状態であった。新入生も政治運動に目覚めて、デモにも参加することになった。岸内閣の退陣と池田内閣の成立は、こうした政治的混乱を収束させ、所得倍増政策による高度経済成長に向かうきっかけとなった。所得倍増政策はケインズ経済学にに基づく需要造出の経済効果に依拠したものものと言われる。アメリカにおける不況脱出策としてルーズベルト大統領のニューディール政策と同じ経済政策であった。日本では丁度、石油へのエネルギー転換とともに技術革新が進められ、新幹線や高速道の建設が公共投資として行われ、高度経済成長が達成されていった。しかし、15年後の石油危機とともに、成長の限界が生じ、国債の累積は巨額な赤字となって、財政を圧迫している。
 ニューディール政策の基幹事業として行われたT.V.A事業は、戦後の日本の資源開発のための流域開発にモデルとされた。ダムによる流域管理と電源開発は、日本の各所で行われ、自然河川を見ることは難しくなったとされる。安保改定後、学生生活は通常のものとなったが、何をしたらよいのか、悩んでブラブラしていた時期に、友人に誘われて石狩川河畔の三日月湖の茨戸のボート部の練習場に向かった。そのまま、その練習場に住み込んで、夏休みまでの二ヶ月ぐらいを練習に明け暮れて過ごしたことがある。その石狩川も自然河川とは言えなかったのであろうが、三日月湖などは自然河川の状態が残されていたのであろう。湖面をボートを漕いでいくこともあり、河畔の植生を楽しんだことを覚えている。

ルール地域の地域計画と日本の国土計画
 祖田修:「西ドイツの地域計画」によれば、シュミットの地域計画とS.V.R.の成立は、世界に先んじた地域計画のとして評価されている。その計画もルール川支流の各自治体の流域管理の共同事業を端緒としているということである。ナチスによる国土計画の下位に組み込まれ、緻密な国土、地域計画の制度を成立させ、今日に至っている。産業都市の形成を計画的な展開に転換した点で、優れた制度として継承されているのであろう。
 日本で河川管理は、ダム建設によって不可欠なものとなっている。天竜川河畔ではダムの放水のために、サイレンが鳴り響いている。ダムの土砂の堆積は、ダム再生のための土砂の除去を必要としている。しかし、流域の森林は林業の盛行とともに、皆伐され、また、林業の衰退とともに、植林地の手入れは滞って、地域の生業であった林業は見る影も無い状態となっている。鹿の食害の原因にもなって森林の成立を困難にしている。河川管理は流域管理でもなく、地域計画でもなくなっている。戦後のT.V.A事業のモデルから遠く隔たっていることを、宮本憲一:「地域開発はこれでよいか」で明らかにされている。
 日本の国土計画は1950年に法制化され、1960年新産業都市を基幹とする第一次全国総合開発計画が作られた。この計画は高度経済成長の公共投資のための計画に連動していた。1970年に新全総が作られ、田中内閣の列島改造論の政策に重ねられて推進されようとした。ドイツが環境保全のための流域管理から地域計画が成立したのに対して、日本では地域開発、国土開発によって、産業の育成を図ったが、その結果生じる環境破壊への対処は考えられなかったといえる。国土計画と地域計画を生活圏として連携させる構想は、新全総に見られるようになり、三全総では、定住圏構想として打ち出されたが、ドイツの緻密な計画制度の実現には、程遠いものであった。

今後の地域計画
 自治体の財政的行き詰まりは、広域合併をもたらし、一つの自治体が広域生活圏と重なる割合が拡大した。広域生活圏は流域の範囲に重なる。これまでの地域開発を中心とした計画は、地域の持続と住民の生活安定を必要とする計画に転換が迫られていることは確かであろう。しかし、これまでの国土計画を中心とした制度は、財政破綻から実行不可能となってきている。また、開発のための計画は、環境破壊をもたらし、開発と保全が両立した持続的な発展の計画とは矛盾している。こうした計画制度を転換させるには、これまでの計画制度によって生じる問題を分析し、克服する方法を考える必要がある。日本の実情に実績の無い外国の制度や実例をただ、持ち込むことは無益な結果しか生まなかったことを反省する必要がある。一方で、外国での、例えばドイツでの地域計画の成功が何に由来するかを、学ぶことも必要であろう。流域管理や景観保全などの事業の適用も地域計画の中で、十分な吟味が必要だろうが、私はまだその具体的な経験を見ていない。