風景視点または風景のまなざし

はじめに
 西田氏が風景視点の転換に関して、論陣を展開していることを、環境研究に掲載された「新たな風景視点」を読んでわかった。近代の風景知覚がロマン主義の思潮などに基づく一定の知覚方法であることは認められてきているが、西田氏の現代の多元的な世界観の思潮に基づく知覚方法へと変わっていることの指摘は、卓越した論陣であると思われる。風景は自然史的視点から人類史的視点へと転換したという主張である。

近代風景の普遍性
 近代風景の知覚方法が何故、世界に受け入れられていったか。それは単に西欧文明の広がりというだけでなく、近代の生産構造、社会構造の影響が圧倒的であり、そうした生産、社会構造に人々の知覚が結合していることにあると考えられる。西欧・近代文明によって世界中が近代化に向かってきた。風景という言葉の由来は様々であるにしても、日本でも中国でも、風景の概念は共通して存在し、日常語化している。こうした普遍性としての風景概念に関して以前、試論として考察している。
 世界大戦や産業化に伴う環境危機は、人類の生存に関わる問題となって、国際連合の活動、その地球環境危機への対処を必要としている。人類の協調の中では、西欧思潮の一方的な適用は困難となり、多元的な文明に基づく、多元的な価値観の存在に目を向ける必要が生じている。すなわち、問題解決とその解決方法に関して、多元的な人類史の視点が必要とされている。風景の実体は地球環境が危機にさらされた姿であり、その解決は各国、各地の生活者である人類の生活者の視点の方法によらなくてはならないということではないだろうか。風景の主体は人類の一人一人であるという自覚であろう。哲学の展開は、すでにこうした状況の認識に到達しているといえる。

風景視点の特殊性
 個々の日常生活に人類史的な風景視点があるのであろうか。ゴミ処理施設の建設をめぐる論議に、多くの一般の人が、地球環境の危機を自覚し、ゴミ処理の責任を担おうとしているかを体験し、人類史的視点の一般化がいきわたってきたことを実感した。自然保護への理解も向上し、開発を自然破壊のために抑制するという考えも、一般に通用するようになったことは、風力発電の建設を巡る論議から実感された。
 しかし、生活は個々の人のものであり、個人の尊重が民主主義の理念である。社会共通の認識が成立することが重要であっても、個々人の自由な判断によるものでなく、権力的操作、経済生活の管理体制に由来して、個人の判断の根拠が失われているとしたら、大変な危機であろう。多元的な価値は、個人レベルの主体性に根拠があるのではないだろうか。