日本風景論からの脱却

はじめに
 ヨーロッパにおいては、ルネッサンスにおいて風景は発見されたものといわれる。中世から近代への転換点となるルネッサンスに登場した風景は、近代の条件と結合しているといえる。それゆえに、日本も含め、後進国の近代化は風景の知覚を広めることに関連している。しかし、中国には古くから山水画があるように、風景の観照がなされている。それは、ヨーロッパの近代的風景とは、脈絡が相違しているのであろうが、そうした風景の意識は、近代的風景の受容を容易なものとしたといってよいのではないだろうか。
 風景は環境の総合的な眺めとして、単なる知覚とは区別されて認知され、観照される。これまでの環境が近代化によって変貌する時期に、風景を知覚していることが意識されるようになっていくことには、近代と風景を結合する関係が何かの疑問を生じさせる。どんな環境の変貌が、風景をどのように意識させるのかということである。

日本風景論
 志賀重昂:日本風景論は、日本人による日本最初の風景論として、多くの人が、日本人の風景意識の変遷の題材として取り上げらている。しかし、そこには、近代化による新たな環境への視座とともに、日本的風景、中国的風景の脈絡が払拭されなまま継承され、まさに、和魂洋才の、すなわち、伝統的視座と近代の開かれた視座とを併合した風景論となっているのであろう。それがかえって、伝統的視座とは何か、近代に向かう視座とは何かをの対比的な関係を不鮮明にしている。

日本風景の持続
 伝統的風景は、名所風景、歌枕的風景に存したとされ、昭和初期の国立公園の設定は、そうした風景地を国立公園としながら、新たな近代的風景への模索から新たな風景地を発見し、国立公園としたことを、田中正大:日本の自然公園に指摘されている。しかし、多くの伝統的風景地は、近代化、工業開発によって変貌していった。伝統的な風景地は、近代以前の社会構造と結合して存在し、その評価はその古い時代の人々の意識によって観照され、支えられていた。しかし、近代化はその社会構造と人々の意識を変革するものとなった。場所や環境のみの文化財保存として維持できなくなった。近代化への変革の不十分さは、新たな近代的風景地の持続も困難とすることになった。

伝統的風景への回帰、日常風景の創造
 日本の国立公園は地域制国立公園であり、国立公園内での様々な土地利用と協調するものとして指定されている。しかし、国立公園はその景観を保護するために、利用及び土地利用が制限され、協調は対立的関係に転換している場合が多い。土地利用が地域住民の生活を支えるものである点で、地域住民の意識も国立公園を生活域から切り離し、利用者を異質な外来者として疎外することが生じる。
 旧来の封建体制は、諸藩に国土を分割して統治され、各藩の範囲に住民は固定され、生活域が限定されてた。しかし、その地域は生活域として徹底的に利用されていたといえる。そうした中に、各地域の住民に支えられた名所が生まれ、維持されていたのであろう。名君の趣味だけで維持されたとは思えない。明治における、日本の近代化の体制は、国民と国土を意識させるものとなったが、生活の根拠となっていた地域社会を軽視するものとなった。中央集権の体制が整うと共に、地方自治の体制が整備されたが、住民の自治意識は涵養されないできたのではないだろうか。
 今日、地方の時代といわれる。住民の主権による自治が求められている。自治の根拠は住民の自立であり、自立した住民による地域の自立である。封建体制に逆行することではないが、地域の自立性とかっての地域環境の余すところの無い利用が自立の基盤であることを、意識する必要がある。自治と近代人の視点で、地域の中の名所風景を再発見し、その持続のための条件づくりは、人々の伝統的な共通意識の発掘と共同意識涵養の上で有効なのではないだろうか。

松本市美ヶ原あるいは塩尻市下西条の事例