松本市街の田園都市構造

はじめに
 近代的な都市計画は、ハワードの田園都市論に出発点があるとされる。それに続く近隣住区論とともに、現代の都市計画手法として生かされている。日本にも戦前からそれらの影響による住宅地の形成も見られる。しかし、大都市の発展は無計画であり、無秩序な市街が生み出された。大都市近郊のニュータウン開発に近代的な都市計画理論が適用されたが、多くの都市は、自然発生的に市街が形成され、近郊農村部を侵食して発展したといえる。
 都市計画制度とすれば、東京市区改正は明治に始まり、大正時代には都市計画法が成立しており、区画整理事業などにより、街路、上下水道、公園などの都市整備が進められた。しかし、それは住民生活の充足に必要なものではあっても、十分なものではなかった。
 松本市の都市計画の過程を詳しく把握しているわけではないが、近年の変貌と現在、各地区の環境の相違をは体験しているところである。都市計画図を眺め、都市の構造を概観し、地方都市の住民の生活環境としての評価を考えてみた。

田園都市環境
 松本の都市計画域の構造は、田園都市の配置に類似したところがある。松本駅から松本城までの区域が商業地域であり、その周囲が住居地域となっており、住居地域は農村地域と山地の森林に面している。また、松本駅の南側からは工業地域が広がっている点である。しかし、異なる点は、都市の規模が大きく、松本城田園都市の庭園区域に該当するとしても、商業地域の中心ではなく、住居地域との接点に位置している。また、住居地域周囲の農村地域に住宅や住宅団地が進出し、混在状態を作り出している。これは、工業地域においても住宅の混在が見られ、田園都市の理想から隔たっている。田園都市が郊外鉄道網の整備期に当たり、自動車交通の発達が見られなかった時代であるから、その相違は当然ではあるだろう。
 生活環境として田園都市の目的は住宅とその環境の供給であり、自動車交通の発達に対処して、幹線道路に囲まれた生活区域としてのブロック内部に近隣住区論がペティによって生まれたが、松本市街は城下町の縦横に通じた街路と農村地域の住宅開発に際して残された古い道とが、歩行者に便利で安全な環境を作り、そこに、社寺の樹林、学校などの公共施設が合わさって、ブロック内の環境を保持している。

庭園と田園
 住宅地域は戸建て住宅によって構成されることが多く、敷地は囲障によって閉鎖的である。住宅地区は個々の住宅の庭園を包含しているが、住宅地区内の街路からは、それらの庭園は遮断されている。しかし、最近の住宅の敷地は狭小な敷地によるものではあるが、開放的となり、囲障を設けない住宅も見られるようになり、開放的な緑地を形成するものとなってきた。また、計画的な区画整理による住宅団地では狭小ではあるが、住民の共同の場となる公園も設置されている。しかし、公園の配置は地区間で大きな格差があり、行政として不足した地区への公園配置に力を入れる必要がある。
 公園の不足が農村や山地に近接していることによって、補完されているが、農村に住宅が進出している地域であり、農村環境を破壊した状態であることが多い。恵まれた農村環境を生活環境に役立てるためには、農村環境の保全を講じる必要があり、混住状態を制限することを徹底しなくてはならないだろう。