近隣生活空間への意識

はじめに
 住宅地を散歩して、工夫されたデザインで手入れが行き届いた庭を多く見ることは散歩の楽しみである。早朝には散歩する人、ジョギングする人に行き会い、やがて、通学や通勤の人々が行きかい、少し遅れて、犬を連れた人に行き会う。
 住宅地の住人の年齢構造と生活時間が、朝の人々の様子に示されている。その様子は、通行、散歩の道路から、近隣の生活空間の構成を垣間見るところであろう。緑地の配置の適切さから、この生活空間を評価する上で、近隣生活空間の構成と住民の生活意識との関係を把握することが必要である。
 住宅地の空間構造は、住宅、敷地、街路、街路に面する畑、空地ときに駐車場、斜面の樹林、水路などである。住民はこれらを生活空間として意識しているのであろうか。個人の生活空間は自分の住宅、敷地の範囲であることは明らかである。敷地から出た街路は生活の場として利用しているが、そこを共同の生活空間と意識するか、外部と意識するかは人によって相違すると考える。
 散歩で街路で出会う人と見知らぬ人でも挨拶することがある。街路は近隣の人々が共同して利用している場であることが、そうした挨拶で意識される。一方、街路に散在するゴミは、誰に見苦しく見えようとも、単なる外部空間として気にしない個人主義の表れと考えるがどうだろうか?そうすると、挨拶とゴミの状況から近隣の共同と個人の意識の相違を判断できることになると考えた。

ゴミの散乱による環境評価
 ゴミも2種類ぐらいに分けられる。意識的にゴミを捨てる人、これは相当社会から疎外された意識を持つ人だろう。無意識にゴミを捨てる人、タバコの吸殻なども含まれるが、付近にゴミ入れがなく、手に持っていることが、都合が悪いためであろう。個人主義の現れには相違ない。多くの人は社会的、公共的な道徳心を持ち合わせており、ゴミなどを捨てることは無い。しかし、環境によって、例えば、ゴミ捨て場に来て、ゴミを捨てない人はいない。それが、ゴミ捨て場のような環境の場合どうであろう。ここでも、遠慮なく、捨てるかも知れない。すなわち、環境によって、公共心を喚起する作用がある。きれいに掃き清められた神社の境内に、ゴミを捨てる人がいるとすれば、近隣社会への悪意と受け取られる。
 意識の3段階と環境の5段階を設定して、ゴミ散乱の意味するものを分析すれば、近隣空間の環境評価方法を見出すことができるかもしれない。

近隣の緑地空間
 住民の散歩する範囲を近隣空間として、生活空間要素を自分の住宅から外部へて広げて考えると、外縁に自然環境が設定できる。住宅外部から外縁の自然環境を生活空間と意識するか、単なる外縁と意識するかの相違が住民間に見られると仮定してみる。
 残念ながら、散歩の道路周辺の斜面樹林には、ゴミが散乱し、近隣空間とは認められていないようである。樹林自体も枝が途中で切り落とされたり、幹が傷つけられ、下層は藪となっている。すなわち、通行や電柱に邪魔になる木の部分の伐採、虫を取るために樹液を出すための樹皮の傷、放置による下層の繁茂と、樹林による風景の効果は発揮されていない。通行のための道路で切断されたままの樹林の姿は痛ましく、痛ましいが故にゴミが散乱することとになる。
 地形と樹林などを生かすことも無く、住宅地の造成や道路の建設と限られた利用目的のための施設の乱雑な配置は、残された自然環境を損傷するばかりで、近隣緑地空間の効果を発揮していない。