風景のための景観工学への疑問

はじめに
 知覚は感覚と意識を媒介する作用といえる。意識的な行動(行為は意識を外化する)は、外界を知覚によって認識する。自動車道路は自動車で走行する行動を目的として計画された空間である。自動車の走行には、滑らかな路面、路幅、速度に応じたカーブなどが必要である。土木工学の道路計画は、こうした道路の構造を造成するための技術であるのだろう。土木技術をcivil engineerと呼んだのは、土木が市民の公共的事業となってきたためであろう。そして、道路からの景観は、市民に共通した知覚となった。道路景観によって知覚が普遍的に制限されることによって、共通化し、機能性、安全性、快適性などの共通の要求が、道路景観を公共事業として改造することにもなる。
 現代文明としての自動車の普及は、世界的であり、文明人たる人類の生活スタイルになるに伴って、道路の建設も普遍的となった。都市や農村、平野や山地、砂漠や森林に関わらず、道路空間は同一であり、土木技術は共通している。自動車が石油を消費し、その石油の搾りかすのアスファルトが路面の材料となって、地球上に広がっている。まさに、人類は共通して人間であることを実感させるにちがいない。宇宙科学が地上を一つのものとする地球を意識させ、人類を運命共同体とするように、道路による地上の改変は、地球に対する共通した人類の生活のための実力行使と意識されるだろう。景観工学は道路工学とともに、その実力行使のための技術と言える。

景観の構成要素
 道路空間の画一性は、道路から眺める景観の画一性をもたらす。景観形成のための道路空間の改造の技術も画一化を高度化させたものだろう。土木技術は地形改変と施設建設によって、ひとの活動する空間へと転換させる様々な分野に展開している。道路空間は交通空間の一つでり、鉄道空間や飛行場も含まれる。生産、産業空間、生活空間、防災空間に及んでおり、景観が眺めを総合したものと定義すれば、眺めの骨格が、土木事業の結果として見出すことになるかも知れない。景観が自然環境と人間の諸活動によって構成される点で、自然環境を人間活動のために改変する土木技術が各所に展開していることになる。
 土木技術が景観の骨格となっているとすれば、土木技術を総合化したものが、生活空間の眺めを生じさせる景観ということになる。しかし、生じた景観を人間がどのように評価するかによって、景観の形成が目標とされるか、あるいは、混乱した景観を生み出しているのかが、相違し、景観が重視されてきたところに、景観工学が成立することになるのであろう。土木空間は人間の何らかの必要によって生じたもので、総合した生活空間には、混乱となるものとなる場合がある。まずは、環境として、次に景観として。

風景の成立を目指す景観工学
 景観を生活環境として評価するのは、その場に居住する住民であり、その活動が環境を利用し、改造することによって、景観を生み出している。生活環境の価値として評価された景観であれば、その改造は破壊となる。破壊を改造の効果によって、評価された景観との均衡をはかろうとするところに、景観工学の必要があるのだろう。人間の技術的な発展は、安定した景観の破壊と安定の再生との繰り返しを生み出してきたのであろう。その結果、最も大きく改変された自然景観と人為による文化景観を生じさせたのであろう。
 景観の評価が、個々の住民の日常的な生活によってなされる場合、風景として知覚される。日常風景となった現在の生活空間は、混乱しているか、安定しているか、汚いか、美しいか、その評価が、社会集団化されて風景の改善か持続が目的として取り上げられる。清掃は地域社会の評価の一端であるだろう。清掃もされなくなった場所は、混乱して、改造の価値に値しない景観であるのだろう。あるいは、個々の人々が主体ではない場所なのかであろう。
 土木技術の総合化として考えられる景観工学は、風景の評価に応えられる景観を生み出すことができるのであろうか。総合化されないで混乱を生み出した個々の土木技術への反省から本来の景観工学は出発する必要があり、風景の評価に接近する技術発展への道は長いと言わざるを得ない。