生駒山系の森林推移

はじめに
 40年以上も過去に、生駒山系の周囲を巡って歩いた。田中氏の言うごとく、最古の里山とすれば、それから後の長い時代の変遷を経て、複雑極まりない様相を呈した山地であるから、当時、全貌を理解できたわけではなく、山地の部分、部分の状態を見たにすぎなかった。
 当時の状況として山地全体で共通してして言えことは、大阪近郊の山地として、林地が過剰に利用された状態から放置に移行して、アカマツ林などが回復してきたことと、放置された山地が土取りとその後の宅地、施設の建設で乱開発が進行しつつあったことである。利用の点では、ケーブルによる観光的利用と山地歩道のハイキング利用から山頂にスカイラインができ、自動車利用が増大してきていた。
 その後の大阪府の迅速な対処で、土地開発の抑制が図られ、土地買収による府民の森の設定と、開発の歯止めと森林管理のための山腹自転車道の建設が行われた。奈良側の対処は知らないが、緩傾斜のため古くより農業による集落があり、林地は農地と混在している状態であった。
 40年の時間を経て、森林は大きく変貌しているということである。その変貌の様子は、時に奈良側から生駒山地の一端に自動車を走らせたり、電車から山麓の風景を見ることはあったが、以前のように山地全体を見てのことではない。部分から過去の全体像に連想を巡らした空想で、森林の変貌を考えておきたい。これを仮説として、全体とは言えないまでも、要所に出向いて、実態を把握すれば、より効率的に推移の全貌を把握できると考える。

これまでの森林推移の想定
 40〜50年の森林推移の想像として、地形的条件によって相違があり、地形的条件は土地利用を規定している点で森林の初期値を相違させることになる。地形は山頂と山腹と山麓に区分でき、山頂には尾根の起伏、山腹の尾根、谷の凹凸、山麓は山地と扇状地の出入りに区分できると考える。40年前の初期値として、山麓は神社や集落が近接していたためであろうか、落葉、恒葉の広葉樹の高木が見られたように思う。山頂、山腹は過剰利用の結果、明るい禿山状態からアカマツ林へと推移していたのであろう。
 40年後の推移として、山頂尾根のスカイラインには、植栽されたサクラ、カエデが並木となって繁茂している。しかし、立地条件か並木が接近し、山地の森林が繁茂してきて、次第に被圧状態で衰退気味である。山腹の谷は山頂の峠と連結し、ハイキング道ともなるが、アカマツ林は衰退し、広葉樹林に遷移しているであろう。アカマツ林の下層のサクラ、カエデなどが、上木となり、さらに、その下層から、コナラが生育し、さらに、カシ類などの森林への移行が始まっているところまおあるだろう。山腹の尾根は乾燥し、土壌が貧困と考えれば、サクラからコナラまでの落葉工場樹林に留まっているかもしれない。また、放置によってクズなどのつる類によって、高木林への成長が阻害される箇所も多くなるだろう。山腹の谷は山麓へと下ると土壌も肥沃になり、以前の残存した広葉樹に連結して、恒葉樹林への推移が促進されているのではないだろうか。しかし、放置によって竹、笹の繁茂があり、更新が阻害される場所も生じているだろう。尾根部と同じく、つる類の繁茂もあるかもしれない。
 以上は森林放置の状況を前提とした想定であるが、この前提は現状の一端から見出されるものでもある。しかし、手入れがどこもされないわけではなく、散発的な手入れや不適切な手入れによって、放置状態から脱却できない状況を含んでいる。40年前から現在の状態に至る想定から、今後の40年にどう変化していくかの想定には、放置のままに対する推定と適切な森林育成による推定とを二分して、想定しなくてはならない。

これからの森林推移の想定
 現状が把握される前に、これからの森林推移を想定することは、あまりに、誤りが大きくなる。しかし、林木の成長と森林の衰退が進行することは確かである。これまではの推移は林木の成長が、森林回復となり、森林の成長に役立った。しかし、森林閉鎖の密度から、林木間競争の激化と停滞が生じる林地に分かれ、閉鎖した林分の競争の停滞は林木の衰退を招くことになる。競争の回復による優勢木の成長促進のために林相の改良が必要となる。また、過密な林分の持続は、林内を暗くし、林床を裸地状態状態とするか、ササなどの単一植生が優占して、更新樹、下層樹木の生育を停滞させて、単層林とする。