京都北山の森林イメージ

はじめに
 京都の原風景は、平安京にあることは確かだろう。京都の原風景は平安京によって改変された土地、森林と水の自然環境となった。しかし、平安京以前の農業開発が平安京建設の土台であることも確かである。川を堰きとめ、溜め池を作って、大規模な水田を作った氏族の集団によるものといわれている。さらに遡れば、山地や山麓で原始的な農業を営む時代があったのかであるが、先住民の自然環境に依拠した生活が思い浮かぶことであろう。北山の広大な山地はそうした先住民の生活の依拠する自然環境であったことがあるのだろう。進展した農業によって、山地の開発も行われ、京都盆地の農業開発と連携がなされたのであろう。とすれば、平安京の原風景は、北山の自然環境にあるのかもしれない。
 「京の原風景」風景デザイン研究会1980  「東京の原風景」川添登1979 「文学における原風景」奥野健男1972
 平安京が衰退し、新たな政権や侵略者の行き来とともに、町衆の力が増大し、京都の社会基盤となり、今日まで持続している。近代化の上で新たな変貌も行われているが、歴史的な変遷が京都市街の重層的な基盤、未だ残る原風景となっている。原初の原風景である北山はどうなっているのだろうか?京都近郊の農業地域は大原であり、現在でも京都市民に野菜などの供給地となっているだろう。そして、少し、山地に入って、北山林業の地域がある。その奥が日本海側に連なる丹波、丹後の山地で、北山の境界は定かではない。この広大な山地には山村が散在し、街道で結ばれていたが、近代、現代には道路網の整備がすすんでいることだろう。(実のところ、これまで、めったに行った事はないので)

北山のイメージ K先生へのメールより
 京都にとって北山がどんな山地かは、ご存知のことかと思います。北山は戦前から京都の岳人に親しまれ、本格的な山岳のトレーニングの場であり、山岳とは異質な藪山という領域として評価されてきました。確か、今西錦司などの人もそうした藪山を歩いた岳人だったのではないかと思います。
 北山の古いガイドブックに森本次郎の著が興味深いものですが、次郎の名前の方が、不確かですが、北山に親しんだ人で、戦前から、北山の山村で離村による廃村の姿にも触れていたと思います。
 保津川高瀬舟の舟運が角倉了以によって開かれたことは著名ですが、江戸時代を通じて、京都に山村からの物資(薪炭)が送り続けられるために、必要であったと想像します。近代化とともに北山は奥地から衰退し、廃村も早くに生じたのでしょうか。また、薪炭林が天然林へと回復していったのでしょうか。
 私は学生時代に友人が北山クラブという山歩きの会に入っていて、2、3回、北山に連れて行ってもらったことがあります。地名が分からないのですが、ミズゴケの採取地の湿原に到達し、大きな広葉樹が巻き枯らしをされている姿に出会いました。
 大正時代に京都北山が回復した天然林であり、日本海へと連なる広大な山地であって、明治半ばの近代化への取り組みとともに、未開発な藪山として、開拓、探検の資源の可能性や未知なる魅力として映ったのではないでしょうか。しかし、実際は山村の衰退の姿だったのでしょうが、・・・・、
 北山林業のスギの林立する姿は、北山の代表的な景観と受け取られますが、広大な京都北山の山域は、北山林業景観の背後で忘れられています。北山スギの風景は、集約的な林業によるものでしょうが、柱丸太の高級材生産が成立したうえでの産業風景とも言えると思います。特殊な林業風景であり、果樹園の美しさと同類のものかと思います。自然に適応して森林育成する林業経営とは違和感があると思うのです。先生が園芸のようだと感じられたことに、同感です。
 人工林の円柱が林立した林内空間は、透視図法によって神殿の内部のように荘厳さが感じられるのは確かです。しかし、それは労働の結果であり、目的ではありません。フォレストスケープに示された断片的な美的配慮の手法とも相違しています。無作為の美に対する作為的な美との相違です。また、フォレストスケープが森林美学のバリエーションかと言えば、単なる視覚的な配慮であり、森林美学と対比できるものではないと考えています。フォレストスケープは景観工学の応用と考えますが、どうでしょうか。