唯物論の自然美

はじめに
 美は高次な意識であり、物質的な環境からはるかに隔たった観念の領域へとつながっている。芸術をその観念の外化とするなら、物質的な環境は芸術の材料に過ぎないだろう。しかし、人間も物質的な存在であり、人間の観念自身も物質であると考えれば、物質的観念が物質的な環境に反応して生み出したものが芸術ということになる。芸術が意識の表出であり、その意識の根拠は人間の物質的な土台、すなわち、生活に依拠している。芸術はこの人間個々の生活意識を純化し、高度化したもの言えるのかもしれない。人間が人類として生物進化の系統の一端を占めた生物である点で、生活を生存に遡り、人類の起源、原始的な生物の進化に遡るなら、人間の意識の深層に、遺伝子にそれらの今日の人間の生活に到達する何億年もの過程を蓄積していることは考えられることである。ダーウィンは生物の知覚に注目し、環境に適応する生物の活動として重視し、身体的変化となる進化の要因として考察している。
 森林美学におけるザーリッシュは唯物論を無情なものとして否定的であり、ダーウィンの進化論からも生物に美を見出すことと人間が美を感じる意識との間に進化の大きな未知な領域があることから、疑問視している。自然環境とその環境を構成する生物の活動を、自然美として快感を得ることの根拠は何か。また、人間の美を感じる意識と一致することの根拠は何か。この疑問を持ちながら、ザーリッシュは、自然美を科学的に説明しようとしている。ヘーゲルによる芸術美は意識の外化であり、自然美を否定していると難じながら・・・

人類の自然美
 生物の生存にとって環境の知覚は、食物を確保し、外敵を避け、共存するものを受け入れるために、不可欠な感覚である。まず、その生物にとって全体的に好適な環境を見出し、次いで近接して目的とするものを獲得するという行動となる。全体と部分、遠近の知覚は、生物の原初から存在したであろう。そして、その選択は、知覚能力となり、行動を可能とする身体的変化に蓄積され、進化を遂げるという、大胆な仮説から、身体の形態は、先天的な能力を表現しているということになる。そして、活動の能力を発揮することに平行して知覚能力が発揮され向上する。それらの能力が発揮できる環境が進化の場となった好適な環境であり、それ故に、先天的にその環境を好むということになる。環境への感覚が鋭くなるほど、環境への好み、快感は増大するという仮説につながる。
 人類は草原に進出して、二足歩行となり、手が自由になったが故に、道具を持ち、人類たりうるものとなった。アップルトンによれば、人類の出発地として草原の風景を好むという仮説が成立する。さらに、遡り、森林に住むチンパンジーから人類が分岐したことも明らかとされている点から、森林環境を好むことも成り立ちうる。そして、水辺の両生類へ、さらに、魚類へと遡れば、水辺や水中が快適な環境として自然美が成立するといっても良い。これに反して、厳しい生物を受け付けないような岩石地、酷熱の砂漠、極寒の地には、全く、別の自然美を考えなくてはならない。
 今日の我々が、進化の過程を内在して存在しているにしても、水中生物ではないし、人工による都市環境は、岩石や砂漠の環境に等しい。そこにも快適な環境を見出し、逆に、実際の森林環境を必ずしも快適としないという状況は、近代の人類の生存方法と知覚能力の発揮の仕方が変化していることを示している。しかし、なお、先天的、潜在的な能力を発揮する場として、草原や森林に自然美を感じることがあるだろうか。ザーリッシュが楽天的に自然美を論じることができた時代から、現代はどのように変質しているのであろうか。
 画家ゴーガンは、田園風景の幻想を超えて、文明の及ばない原始人の生活を求めた。しかし、近代文明の中で原始的生活は衰退し、原始の生命力を見出すことは難しかった。(ゴーガン:ノアノア)しかし、もしゴーガンがそれを見出したとすれば、文明人であるゴーガンは原始人によって殺されていたのではないだろうか。しかし、こうした論議は確証が無いために、もっともらしい空想の段階から出ることはできない。

文明の自然美
 古代文明の地がいかに荒廃し、それ故に文明が衰退したかの論議は多くなされてきた。文明の存亡の要因が自然環境、資源に関連していることは否定できない。しかし、農業の持続のために、土地の肥沃を保つ努力をしたのに、自然資源に関しては、枯渇するまで利用して、育成や保続をしようとしなかったのは何故なのだろう。農業を目的とした土地開発と拮抗したためであろうか。大切にしなかった環境には美の意識が生じなかったとすれば、自然美は古代には存在しなかったといえるのであろうか。しかし、原始時代から継続した自然への依存もまた存続したとすれば、自然が大切にされ、自然美もありうることである。この自然の破壊と利用の両面が交互の関係として生じたことは想像に難くない。自然資源の枯渇や自然の猛威は、自然への畏敬を原始時代と同様に存続させるものであるだろう。しかし、人間の威力への過信もまた存在し、自然への畏敬を宗教の世界に閉じ込めようとしたのかもしれない。