魂の造園論

はじめに
 神部さんより、これまでの講義録を完成させるために、ブログで「庭園探求講義録」を書いており、読むことを勧められた。随分の大著であるようなので、読み始めるのに躊躇しているのであるが、実感のこめられた造園論を楽しみにしている。
「魂」は戦前まではよく使われているが、戦後に育ったわれわれはほとんど使わないし、考えようとしないかもしれない。魂は生きている時には、心としてあり、死んでからは、身体を離れて残り、不滅の存在と考えられるのではないか。生命のすべてに、環境の中で、適合する条件を判断し、生存する強い、意志が存在するように見える。そして、生活の場を得て、生存を持続させる。動物は勿論、植物も同様である。そして、その生命が滅んだ時に空洞が生じる。その空洞を他の生命が適合して埋めていく、魂は生存の意志であり、生存の場の空洞で、次に受け継ぐ生命の場と解釈すれば、魂は人間に限られたものとは言えないかもしれない。
 造園は生活の場を自然環境の中に見出し、環境を改変して生活の場を新たに作り出す行為と考えられる。造園の場で生活する人間そのものが、造園の魂と言えるのかもしれない。造園の究極に、魂があることに神部氏は到達したと述べている。講義録は非常に楽しみである。魂が身体を動かし、身体が環境を必要とする。造園空間を環境の問題とされた造園論もない一方で、その空間を生み出す人間の問題として扱われた造園論も存在しない。風景の対象と主体の関係論も未熟といえる。新たな造園論の構築の必要があると考えているが、魂にまで到った神部氏の造園論はその本題となるものか、それを含むものであることは間違いない。
 私も新たな魂の造園論を構築する材料を少し、論じて行こうと考える。

墓地と霊園
 墓地は死者を埋葬している。有機物であった人間の身体は、無機物へと分解する。土と水、風へと拡散する。私物の死は、全て同じである。墓地はその一部を残し、墓石に刻んだ文字によって、かって存在した人間の象徴を残している。墓地が霊園に変わるとき、霊園はそこに来る人々に死者の生きていた日々の思い出よみがえらせる場所となる。礼拝の人々で静かな墓地は突然の賑わいがもたらされ、人々は死者とともにある。
 死者の憩う場所としての庭園のイメージは古代から存在したようである。死んだ人は、身体を失って魂がその所在地となる場所は、楽園や理想郷でもある。それが空想であり、幻想であることは分かっているが、生きている人はそうした環境を実現しようと努力する。墓地に願われる死者の魂の安息所が、霊園として実現される。庭園が生きている人の安息所であることにつながっている。
 庭園の環境は、自然的条件を再構築して生み出され、自然環境の機能化と理想化が一体化した目標を持つものと考えられる。多くの生物によって構成される森林環境は庭園を構成する要素である。無機物から生じる生命による有機物、生命の死による有機物の分解。無機物への還元の複合と循環が森林環境を構成している。土から生まれ、土に還る生命、その聖なる土地が、庭園であり、霊園といえるのであろう。そこで生活する人に、安息を与え、生命の循環を感じさせる場所なのである。自然とはかくなるもの、人間もまた自然の一部である。自然はただ存在しているのではないということから、新聞(ピアニスト:デュシャブールの記事より)で見たパンセの一節「われわれは生きているのではなく、生きようと望んでいるのだ。」に感銘を受けたのである。

イコンとイデア(表題のみハーバート・リードより)
 イコン(聖像、象徴)とイデア(理念、理想)の関係は、事物と言葉の関係に似通っており、関係園もであるだろう。イコンの魂がイデアであり、イデアの顕在化がイコンという関係にある。実際の牛を牛という言葉で呼び、牛という言葉から動物の種類を特定し、人にその実体を言葉で伝えることができる。すべての事物が言葉に示され、言葉によって事物が伝えられる点で、すべての言葉は事物の魂であり、霊であるということも考えられる。
 事物を構成しようとして、その考えを言葉で表現する時、構成される事物は言葉で構成された考え(観念)の顕在化ということになる。観念の総体である精神が現実に顕在化し、循環的に精神が展開していく過程をヘーゲルは「精神現象学」によって見出した。現実に精神が作用している点からは、精神から現実への過程は、逆転した関係に注目されているが、人為のあり方を明確にしたと考えられ、イコンとはイデアの象徴であることも一つの証左である。マルクスは貨幣と商品における価値の転倒を問題としている。

都市と自然
 最後の氷河期を過ぎて、1万年を超えない間に、人類は現代文明に到達した。原始生活に起源を持つ、共同体は、人類が交流する国際社会となり、たちまちの内に、人類の生活は、工業文明に依拠した経済社会に依存している。物質的な欲望によって、経済が成立し、経済に支配される人々の生活は、精神性を欠いたものとなる傾向が増大した。個々の生活が、自然から遠のき、自然を尊重する意識も薄らいでいる。現代の激動する社会は、日本では高度経済成長期以降に特に顕著であり、現代はまた、その破綻に直面して久しい。経済活動の中心となってきた都市の衰退が迫り、人々の自然回帰は不調な状態では、現代文明の危機と言わざるをえない。また、それは、人類の生存の危機であり、経済の不調を回復させようとすればするほど、危機は深刻さを増している。
 人間尊重、人類共存の理念に立つ、精神性の回復が必要である。人間が自然条件を克服して、自然を支配することは、精神の勝利とも考えられるが、破壊された自然は、人間がどれだけ自然に依拠した存在であるかを明らかにした。情報は手段であり、目的ではなく、現実生活に回帰する必要を感じた時、自然の恩恵を感じ、その恩恵を感じる感性こそが、精神性の回復といえる。人々が自分の生活が正常ではない感じるとき、精神が病気に陥っていると考えるかもしれないが、生活を正常なものにする努力をすればよいだけではないだろうか。
 個人の領域では庭園は、人間の支配する自然の場といえる。庭園のありようは、精神の状態を示している。自然が尊重される時、魂の所在もまた見出しうるかもしれない。これは、都市の自然環境、緑地にも言えることではなかろうか。庭園にどんな意味があるのかが、考えられ、都市では、都市の場所の意味が問題となった。現代文明の危機に瀕して、精神性の回復が個人と社会のもとで問題となっていることを示している。