景観から風景の理解

はじめに
 風景や景観が、日常的な知覚であり、経験である点で、もっともらしい技術や科学などというものも、おかしいのかもしれない。平易に日常の経験を洞察して、それらの経験を再構築すれば、よいのではないか。風景画家が、深い観察によって気付いて描いたことを、観覧する人が感心するのは、その画家の発見によるものであるのかも知れない。しかし、その絵画が芸術であるのは、描かれた全体、部分を総合し、そこに引き込まれる画家の内面の世界なのではないおだろうか。風景画の感動を、風景と同一視するところに、混乱が生じるのではないだろうか。
 ある地域の風景を考えてみれば、その地域の住民は日常の様々な行動を通じて、地域の風景を知覚し、住民同士では共通の地域とその自然の時間的変化によって、共通した体験を持っていることが多いであろう。その共通項から、個人の体験は幾分特殊な所を持つということがある。個人の特殊性から考えれば、共通した体験は僅かであるかもしれない。共通した体験が多くなるのは、地域の環境によるのではなく、人々の生活スタイルが共通して、体験の共有を確認できた時ではないだろうか。地域という場所の広がりとその広がりの一部を知覚する個々人の生活との関係によって、風景が成立し、生活スタイルの共通性、実際の生活の共同が、個人の体験を共有なものと意識させるとまとめられる。その時地域全体の知覚が景観と意識されるのであろう。
 風景画と風景、風景と景観は、重なり合うところが多分にあるために、混同が生じてきたのかもしれない。また、芸術と日常の知覚、日常の知覚に科学的な概観には大きな格差があり、無関係なものとして区別が強調されることもある。しかし、混同と区別の中に、風景の概念が、芸術と知覚と科学を関連づける可能性を示している。ギルピンによるピクチュアレスクの探求が、芸術的体験を視覚に関係づけようとした時、風景計画の理論に近づき、ケヴィン・リンチが風景のイメージを地域を知覚する地図として示そうとした時、風景と景観は、個人の行動と環境の意識に転換し、環境心理学の一端を構成するものとなったことは、これを示している。

景観から風景への平易な関係
 景観は地域の全体像であるとする地理学概念では、航空写真がその概念を実像としてとらえるのに役立つ。地表を天空から、地球を宇宙から見る見方である。個々の人間は地上を這って移動する小さな点に過ぎない。しかし、人間の影響は大きく地表の自然状態を改変し、その中に居住域を広げて交通網によって網の目のように結合している。グーグル・アースは、このパソコンの中でこの航空写真の実像を体験させ、人類共通の地球を知覚させてくれる。