森林美学の美学とは何か

はじめに
 ザーリッシュの森林美学には何人かの美学者の名前が上げられる。しかし、ほんの僅かに名前の上がったヘーゲルなどの著名な哲学者以上に、牧師のギルピンの引用が多い。哲学者と牧師の美を論じる違いは何であろうか。美は高踏的な哲学の問題ではなく、日常的な感性の問題であり、日常生活の有り様として信仰の導き手であった牧師であったからこそ、ギルピンが森林や風景の美を問題としたのであろう。ザーリッシュは林業家の立場で、日常接する森林に美を感じる点で、ヘーゲルよりはギルピンに共感したのであろう。
 近年、技術家における倫理の必要性が取り上げられてきた。倫理学もまた哲学の領域とされるが、宗教的な言い方では、道徳と言うことであり、日常的な行動規範であり、法律にまで至らない社会の持続のための常識といえるだろう。ソクラテスに始まる哲学自体が、「いかに生きるか」という思考の追及であり、わたしのような単なる生活者にこそ必要なものだと思うが、どうだろうか。哲学や美学は哲学者が行うものではなく、生活者が追求し、守り、感じることなのではないだろうか。その点で哲学や美学や倫理学を学ぶ必要があるが、それ以前に法律や環境や公共施設に知識と社会的歴史的な蓄積が集積し、それらを享受して生活を成立させている。そうした現実の体制の中で、自己の生活の場を選択する主体性が必要なのであろう。依存するのではなく、自立して利用することが大切なのであろう。
 以上の点で、ザーリッシュは林業家であり、森林官の経歴によって、技術者の専門領域の中で、専門家の日常としての森林美学を見出したのではないだろうか。どんな専門の学者でもよいのであるが、例えば、そんな心理学者はいないであろうが、日常生活が貧困で、自己の心理に無関心であるだけ、他人の心理の観察ができず、学理や実験の世界に閉じこもるのとは、全く逆であり、それはザーリッシュが林業家であったからといえよう。その森林美学は、専門のみならず、広く普及する知識となったといえる。