森林美学の再生

はじめに
 フォン・ザーリッシュの森林美学は、時代的に、ドイツ帝国の成立(1871)と第一次世界大戦の間を背景に著され、流布し、メーラーの恒続林思想へと受け継がれたといえる。しかし、第一次世界大戦(1914−18)は森林美学の展開に大きな障壁となったことが想像される。あるいは、ドイツは敗戦後の復活に森林への期待は一層高まったのかもしれない。
 現在、小池先生はわが国の林学における森林美学の再生を目指して、非常な努力をされている。欧米諸国の林学者との交流を通じて、世界的な森林美学再評価の動向を見出し、森林美学の意義を生態系サービスと同一したものと見出したのは先生の大きな功績と考える。しかし、私は、突然のあまりにも大きな災害で、森林美学再生の社会的意義をどう認識するか、思い悩んで、先生への意見を見出せないでいる。
 人々の安定していた生活を覆す災害には、自然によるものと、人為によるものと、人々の意識状況によるものがある。自然による大災害は、地震と台風であり、人為では、戦争、今回の原発事故、飛行機、自動車、電車などの事故、意識の面では、自殺や犯罪である。これまで、日本における社会を揺るがす大災害は、関東大震災(1923)、第二次世界大戦(1939−1945)、そして、今回の東北・関東大震災であろう。これに、阪神・淡路大震災(1995)も含まれるかもしれない。こうした大災害に復活することできたが、今回の災害に楽観視はできない。
 森林美学の成立した社会的条件は、経済面から林業経営が成り立ち、社会的にレクリエーション利用が高まり、環境を安全、快適なものとして向上させようとする必要が生じたことによるものであるだろう。災害は、自然や人為的環境の破壊的状況と安定した生活の破壊をもたらす点で、森林美学成立の条件を消失させるものとなるだろう。一方で、これまでの人為による自然環境の破壊と人為による環境の破壊的な影響に支えられた生活構造への反省が呼び覚まされることになるだろう。
 小池先生の森林美学から生態系サービスへの結合は、まさに、生態系を破壊したところに、サービスは失われ、森林美学とは逆に、森林と自然環境の破壊的様相への嘆きとなるかもしれない。生態系が成立してこそサービスがえられ、生態系を破壊しては、災厄しかないのであろう。

新島・村山「森林美学」の再生
 日本において森林美学が世に広く流布されたのは、新島・村山「森林美学」1918によるものであったろう。また、明治神宮の造営1915−は、造園学創始の端緒となり、林学者の叡智を傾けた林苑計画を成立させた。そして、1923年に関東大震災が起こったのである。大正期の自由な雰囲気は、この災害によって一変したことは想像に難くない。
 森林美学は、日本とくに北海道の森林と美しさを樹木の形態的特徴を通じて訴え、林苑計画の実現は、明治神宮の森林に生態系の実現を見せるものとしたであろう。震災復興とともに、森林美学や林苑計画はどのように再生したのであろうか。今田は森林美学をフォンザーリッシュの基本的な考えに立ち返り、林業経営における美と功利の調和を主眼として、ドイツ林学における歴史的過程からこれを検証した。田村は、「森林風景計画」1929で、保健休養による森林利用と森林育成を主眼として、森林風景計画の主眼とした。第一次世界大戦後のは、国有林を中心としてメーラーの恒続林思想が風靡し、森林経営の観点と国立公園の森林の取扱いは、共存できるものと考えられたのであろう。

第二次世界大戦後の森林美学の再生
 第二次世界大戦の戦中、戦後において、森林資源は枯渇し、災害が生じ、また、徴兵によって農山村の労力不足など、森林美学の成立条件は消失してしまった。しかし、禿山でさえも利用の対象にされ、僅かな休養の場にもなっていた。
 私は1968年と69年に今田先生の森林美学の講義を受講したが、先生の「森林美学は美と功利の調和」であるという内容は話されなかった。後に「森林美学の基本問題の歴史と批判」1934を頂き、先生の業績をはじめて知ったのである。先生は戦後における森林喪失と生存を求める社会状況に森林美学の成立条件の消失を考えて、話されなかったのかは、推測だけしかできない。
 また、田村は、戦後の資源開発に対して、国立公園を中心にした自然保護の運動を行い、世相に抵抗して対処した。しかし、林業とともに形成される森林風景計画の展開は頓挫したといえる。資源開発の時期を過ぎて、高度経済成長期の半ばに、国有林の休養利用の事業が発足し、田村の森林風景計画の一端が再生し、休養林への森林の指定と利用と育成の事業が展開することになった。
 一方で高度経済成長は、奥地の森林資源を枯渇させ、外材を輸入を増大させることになり、国内林業の成立を困難とすることになった。林業衰退による森林放置の一方で、森林の休養利用の要求は増大し、休養林や森林公園に限る森林利用の整備が進展したといえる。林業技術者の縮減と高齢化が進行し、林業持続の危機が進展し、放置された森林はますます拡大することになり、林業経営に付随する森林美学の再生も困難であった。

生活環境の向上における森林美学の再生
 高度経済成長期を経て、急速な経済的発展は望めなくなり、低成長の持続的発展が望まれるようになった。三全総の定住圏構想はその時代のものである。村おこし、町おこしが言われ、地域資源への見直しが行われるようになった。放置された森林も、森林蓄積は増大しつつあった。しかし、過密過疎の是正や外材輸入による国内林業成立困難の是正は、行われず、山村と林業の衰退は持続していくままとなった。こんな時期に「森林風致計画学」(1991)が刊行されたが、森林美学成立の条件を省みないものであったことを反省している。
 その後のバブル経済とその破綻によって、五全総の時代に生活環境向上や林業への関心がやっと高まってきたといえる。しかし、阪神淡路大震災は、過密都市に破壊的な災厄をもたらし、復興に当たって防火対策の重要性の面で生活環境改善が求められた。森林を利用し、美しい森林を求める要求も増大してきたが、森林が美しくなる方法は見出せない状態で、清水はその技術的な基礎となる造林学の見地と森林美学の展開過程から林業経営による森林美学の根拠を明確にしていった。

小池先生による森林美学再生への挑戦
 小池先生は山林第1522号に「森林美学の今日的意義を問う」2011という論説を発表し、森林美学への見解を明らかにしている。前述した森林美学の貢献である海外の潮流、生態系サービスと森林の美的取扱いもそこに述べられている。北方林業でも9編の論文が提示されている。先生のこの熱意によって、森林美学が脚光を浴びてきている。
 しかし、今日、東北・関東大震災の避難の最中の社会情勢では、この脚光も見直す必要があるだろう。また、今後、長期わたる復興の中でどのように、森林美学を位置づけることが出来るか、社会に有益なものとして訴えられるかが問題である。省みなくてはならないことの多い私が述べることは、大変失礼で、僭越なことであるが、生態系を無視し、破壊して生じた類を見ない災厄を目前にして、つい、述べざるを得なくなったことで、お許し下さい。是非、よき著書で学生への教科書となることを願っています。