これからの森林美学

はじめに
 大災害の悲惨さとともに、原子力発電所の事故は、これまでの日常生活を一変させた。災害当初は、被災地とは異なる何か変わらぬ日常生活に違和感を感じていたが、災害の状況が知られるにつれて、現実感を増してきている。原子力発電所の事故はこれまでの日常生活の脆さや危険性を実感させている。復興に向けた活動も、原発事故の処理に追われるなかでは、不安定な感がぬぐえない。被災地の人が、悲しみをこらえて、懸命に復興に希望を抱こうとしているのに、残念なことである。しかも、原発事故の影響は、地球上の環境破壊と現代文明の危険性として、影響を与えており、大気や星空の清透さを彼方に押しやったのではないだろうか。
 核爆発の実験が行われ始めた時、雪は黒い雪となり、雨は危険なものとなったことを覚えている。また、合成樹脂による製品が出回った時、傘が番傘や布製の傘からビニール傘が出回り、何と雨をはじく便利なものかと、感心したことも覚えている。こうした時期からたった数十年しかたっていないのに、地球環境が深刻な事態として意識されるようになるとは、想像することさえもできなかった。恐れも知らずに、科学技術の進歩に邁進し、戦争の危険だけを悪と考えたことは、深慮に足りなかったことなのだろうか。
 戦争を原子爆弾被爆によって終わらせ、戦後に平和国家を標榜し、復興から高度経済成長に向かったわが国は、今回の大震災への同情と援助を得るとともに、原発管理の不備によって非難を受ける立場となった。われわれの享受した豊かな生活も反省が求められることは、間違いない。しかし、一方で世界経済への影響も心配されている。日本が国民生活の安定した普通の平和国家となるために、現在、直面した災害からの復興は最大の試金石となるではないだろうか?そのためには、世界の諸国に相応の責任を果たすための配慮が必要であるだろう。日本国内だけの問題では無くなっているように感じる。
 現在を背景として、森林美学の成立を私が難しいと考えているのではないかと、美学者のK先生からご指摘を頂いた。そして、今後の展望として、K先生は、森林の資源的価値が増大し、生活環境に影響する森林の美的取扱いが必要となり、森林美学の重要性が増すのではないかと示唆された。私もまた、そうあらねば、と考えるのだが、sollenとsein(存在)の相違に迷い続けてきた点で、楽観視することはできない。しかし、将来を存在の延長として復興を考えることは、世界的に考えれば許されない状態であるように考える。そうあらねばならない将来像を目標にしなくてはならない。これもsollenであり、計画者の立場である点で為政者の責任となる。有識者による復興計画理念とそれに基づく計画構想が国と自治体を中心に次々と生まれることになるのだろう。しかし、被災者と国民にとって将来構想が問題となる以上、為政者と有識者はこれまでの存在に対する自戒の上で取り組む責任がある。K先生は国民的レベルでこれまでの生活への自戒が生じていることに注目しているのであろう。

森林資源利用と森林美学
 清水氏は北方林業林業経営によって森林美学が成立したザーリッシュの考えを、現在の森林の現状の中に見出し、森林美学が現実に必要なものとなる根拠を明らかにしている。森林美学再生の根拠となる重要な論考と評価している。そこで、現在の森林の現状は、戦中、戦後からの森林の回復によって成立している。林業経営の成立は、全般に放置の状態から、多数の森林所有者の中で希少であり、散在して見出される。所有規模が大面積であれば、専業的な林業経営が行われる割合が多くなるが、副業的な篤林家による経営も見られる。こうした民間の大小の林業経営と経営者・林業技術者の森林育成の意欲の中に、清水はザーリッシュの見出した森林美学の根拠があることを指摘している。
 資源の不足、エネルギー危機の将来像にとって、これに替わる放置された森林資源の利用は不可欠となることは充分推定される。森林資源よりも安価で多様な用途があることによって石油資源に依存する現状が生まれたが、森林資源の利用は、生活の豊かさを加味し、利用による森林育成によって環境を改善することができる。多くの森林所有者が森林資源を利用し、森林資源による商品を流通させることによって、石油資源から森林資源への転換が進行することになる。限られた地球上の資源である石油は減少して貴重なものとなるだろう。