災害と日本風景論

はじめに
 今回の大災害は、地震津波によるものであり、建物の倒壊と火災、津波の逆流に押し流されて史上に残るものとなった。火山の噴火、台風と日本は自然災害の多い国である。山地、海岸や河岸、低地、火山の裾野と様々な危険な場所がある。人々の生活域はこうした危険地を避けるなり、防災のための施設を設置して、防災に努めている。しかし、間断的に襲ってくる自然災害に予測できない事態が生じて、多くの人々が被害を受けてしまう。
 平常の恵み豊かな自然は、災害の恐ろしさを忘れさせ、対処を不十分とさせるのかもしれない。災害によって海や山や平野の豊かさも、危険と裏腹であったことに気付くことにもなる。そこで暮らす人々は、災害を避けながら、自然の恵みを受ける叡智を身につけ、災害からの復興に取り組んできた。災害の風景は悲惨であるが、それを乗り越えて復興する人々の姿は感動的である。津波による被害ににもう海は見たくないという人がいるとともに、暮らしのために漁の再開に努力する漁師もいる。海は恐ろしい威力を持つが、限りない豊かさを持っていることを示している。大地や山もまた、同じであろう。
 志賀重昂は日本の風景の自然的な特徴を「気候・海流の多種多様な事、水蒸気の多量な事、火山岩の多々なる事、流水の浸食激烈な事、」を上げている。海岸、河川、風雨、火山などの要因が多様な風景地を出現させ、人々が楽しんでいるを指摘している。適度な湿度と気温は、豊かな植生を育み、地学的な景観を装飾する。日本風景論:明治27年
 日本風景論は、日本人に国土全体の風景を意識させるものとなったが、それは、風景の要因が災害に換わり、風景地は危険な場所となることまでを意識させたであろうか。日本風景論の著された頃は、日本の産業革命の進展の時期であった。西欧の科学技術によって新たな開発が試みられ、これまで、利用されなかった海岸、河岸、山地の自然環境へと利用区域が広がった。防災による災害の克服は、自然環境の資源的利用のためであった。そこに、風景の特徴の中に潜む災害の危険が、次第に風景とは切り離されたものとなっていったのではないだろうか。その結果、風景の保全と産業的開発は対立的なものとなり、過度の開発によって自然保護との調和は見失われた。

三陸海岸と松島の風景
 三陸海岸には若い時から、強い憧れを抱いていたが、未だ行ったことはなかった。太平洋の荒波を受ける入り組んだリアス式海岸を想像すると、海岸に沿って漁村を訪ねる放浪に胸が時めいた。しかし、今回の災害は、この三陸海岸の漁村、漁港を壊滅させたという。太平洋に乗り出す誇り高い漁民の船も津波によって破壊されたという。入り江には押し流され家屋がゴミとなって浮かび、大勢の人々が亡くなり、また、避難している。もはや、憧れの漁村は探そうにも見出せないかもしれない。
 松島には2回行ったことがある。多くの島々の浮かぶ、松島湾を遊覧船で巡ったことがある。一度は奥松島の民宿に学生と一緒に泊まっていたことがある。海岸のマツはクロマツと思っていたら、島々のマツはアカマツだったことに驚いた。沈降する地形によってリアス式海岸が生じ、山地の山頂が島になったためであるとの理解で納得した。この松島にも津波が襲い、大きな被害があったという。以前、松島の風景に今回の危険性が感じられたかといえば、わからなかった。当時、マツ枯れ病の被害と島々の侵食によって風景の変貌が問題であった。
 数日後に三陸海岸の被災地に出かける予定がある。被災地の状態から復興の方法を考えて見たい。わずかな期間なので、多くは見ることはできないだろうが、海岸風景の危険性を目の当たりにして、厳しい自然環境の開発と保全の調和の接点を考えて見たい。