森林資源に依存する生活

はじめに
 森林に依存した生活は、縄文時代の狩猟採取の時代に見出されると考えられる。明治以前のアイヌの人々の生活から縄文時代の生活を想像できるかもしれない。農耕が開始されても、以前の自然依存の生活が継承されていたであろう。支配階級の成立と物資の流通の進展は、生産者と消費者を区分し、自然に依存しないで生活できる階層を増大させたとも考えられる。しかし、その支配階層の搾取と交換経済のなかで、流通する物資は農産物であり、海産物であり、山林からの生産物であり、自然に依存した農民、漁民の労働によって生み出されたものであることは変わらなかった。
 一方、現代の我々の生活は、いかに消費的であることだろう。第一次産業の人口は減少し、生産は極度に分業化し、流通経済が極度に拡大した規模で発達している。生活者は、消費者であり、経済機構に依存した分業労働者となっている。経済機構の盛衰によって、職場の確保や所得の獲得は左右され、その土台の上で消費者の自由だけが残され、その個人の自由は経済的な不平等のもとにある。
 経済の停滞は生活者の収入と消費を減退させ、生活を困難にさせる。生活向上のために経済機構の回復、活性化が不可欠と考えられている。しかし、経済の国際協調や地球環境と限られた資源の視野からは、安定した経済と実質的な生活向上こそが重要となり、競争による格差よりも平等な社会関係が必要となると考えられ、消費的生活の転換が必要とされてきている。
 原始時代の生活は、共同体の範囲で、自然資源を利用し、持続させていたが、今日、地球や経済圏域、国、地方、地域、自治体居住域の空間階層の中で、消費的生活から、自立的な生活への転換方法を見出し、確保する必要がある。こうした大勢が生じるかどうかは、実体ではなく、予想の範囲なので、個々の自覚が大切である。個人のレベルからは、商品流通の消費者から、撤退し、その流れを自治体の住民レベルに増幅させることもできる。エネルギー危機やゴミ問題では、すでに、消費の抑制が必要とされている。
 一方で、地場産業、農業、林業の衰退が、地域資源を遊休化し、地域の衰退を顕在化させている。個人レベル、地域レベルからの放置された地域資源の活用によって、住民生活を安定させようとする取り組みが危急性を帯びてくる。地域資源としての森林は、利用することによって資源の持続性を増大させることができる。原始時代には森林からほとんどの生活に必要な物資を得ており、そうする他は無かった。今日の文明生活を、原始時代に戻すことはできないだろうが、学ぶことは多いであろう。地球上には様々な民族の原始生活の過程があるだろうから、ここに人類の知恵の蓄積として、選択して活用できることだろう。また、近代社会にいたる過程における歴史的経験も蓄積されている。文明の進歩が、どのように生活向上として作用しているかを考え直すことも必要である。

森林資源の放置の原因
 森林資源は明治以前は地域住民の自給資源として活用されることが多かった。地域によって林業生産が成立したところ、木材資源として市場で利用されることもあった。明治以降は、自由経済の進展の中で、薪炭生産、木材生産は産業として成立するものとなった。計画的な利用によって森林を育成する林業地域も拡大したといえる。しかし、戦中、戦後の過伐と森林災害は、森林資源の持続性を後退させた。これを国土緑化、拡大造林による植林によって補っていこうとした。
 しかし、資源不足と需要増大は、外材の導入を招き、国内林業を衰退させた。また、石油資源への依存によって、薪炭などの燃料需要が減退した。農山村から都市への人口流出、所得格差は、林業労働力をも減少させることになった。この結果、林業の産業的衰退に留まらず、自給的な利用をも減退させ、それが森林放置の要因と考えられ、多くの人の指摘するところであろう。

森林資源の活用に向けて
 森林が利用されず、放置されていることによって様々な弊害が生じている。それは土砂災害の危険性であり、森林の利用環境の悪化である。
 戦後、森林破壊によって災害が増大したが、森林の回復後の放置もまた災害の危険となる。森林の被覆によって土砂の流亡を防ぐが、放置された人工林、伐採後の再生した森林は、同一林齢で過密となり、根が小さく、また、伐採木の根株が腐り、大きな土砂崩壊を生じさせる危険がある。また、森林自体も風害などに弱くなり、破壊される危険が大きくなる。
 また、森林放置は山道の藪を繁らせ、山道を通りにくく、ついには消失させる。山に入る人々を減少させ、森林環境の混雑は、森林の楽しみを減退させる。山地周辺の地域住民の利用を困難にする。
 こうした弊害を除くためにも、森林の育成が必要であるが、産業に衰退とともに、経済的に採算が合わないことが、放置の原因である。

森林資源が提供するもの
森林資源に期待するもの