風景から森林の知覚

はじめに
 この晴れた日に町を見渡す眺望は、風景と言ってよいだろう。町の上方に高い空があり、地平線には、新緑の山々が連なっている。山々に囲まれた盆地の平野、その平野を覆う農地と集落や町を一目で見渡す。程よい樹林とともに、高台の住宅がこの盆地せり出すように軒を連ねている。様々な風景要素が近景から遠景へと遥かな広がりを見せている。天空の朝日に地上は暖かい日差しに輝いているようである。視線は天空と町を軸として広大な空間に広がっている。
 この風景に面して、私がいるのだが、狭いテラスと窓から眺めが、一挙に風景へと広がって、狭い空間を忘れさせるばかりか、快いものとしている。風景を構成する場面は、場所と空間の広がり知覚するものなのであろう。場所が狭小で、閉鎖された空間であっても、眺望の広がりが、その限定された不自由さを補ってくれる。行動の場面に、限定された場所から環境を知覚している。見渡す風景は、行動の場面を広げ、これからの行動の場所を自由に選択することを意識させるのだ。

場所の性格としての環境
 居住のために住居があり、通行するために道があり、憩うために公園あり、それぞれが生活行動を通じての場所であり、行動の場面となる。行動するために、行動の主体は場面の状況を判断しなくてはならない。場面の状況は、主体の位置する場所と視線の向けられる方向から構成され、知覚判断される。場所は環境として知覚され、眺めは広がりと事物の存在を視覚的に知覚する。環境は主体の直接接する外界であり、身体全体の持つ五感による知覚判断であり、身体の条件反射的な行動が対応している。環境の五感に対する刺激によって、場面の状況を判断し、行動することができる。
 場所毎に環境が相違しているが、この環境も主体の行動によって刺激する感覚が相違して知覚される。すなわち、場所の環境の相違と場所における主体の意識の相違が、その場面の知覚を成立させている。同一の性格の環境の範囲を場所の単位とすると、連続した行動は、場所の連鎖を生み出し、場所を区域、地域へと広がるものとする。地域の環境が、性格の異なる場所を連続させ、複合した生活の行動に収斂すると考えれば、生活環境として統合されたものとなる。
 日常生活が、住居を中心に反復して繰り返され、一定の生活圏を形成すると、複合した場所の性格は主体の生活スタイル、日常意識を構成する。地域の性格は都市、農村などによって住民の生活スタイル生活意識が相違している。地域を構成する場所の性格も相違してくる。都市を構成する場所の性格は、市街地であり、農村では農地である。

場所による風景の相違
 市街地は街路と商店などの建物によって構成され、建物の外壁は見通しの遮りと、街路は見通しの延長をもたらす。市街地から隔たった山地は街路の見通しに空とともに狭められる。農地は水田や畑地、畦と道による区画によって平面的に構成され、樹林や集落を点在させて自由な眺望を作り出す。それぞれの場面は都市住民や農村住民の生活スタイルの相違とともに場所の環境が意識され、場所と生活意識を通して、眺めとなる風景が知覚される。ただ、美しい夕日は、都市住民が感じるものと、農村住民が感じるものとは、相違することになる。農地の広がり、山際に沈む夕日は、農村住民には農作業の終了を意味するのに、都市住民はただ空の美しさばかりである。

森林の知覚
 山地の表面を覆う森林は、都市や農村にとって隔たった風景の要素である。山地の森林に出かけ、林内に入ることが、生活の必要となる人は少ないといえるだろう。多くの人々は、風景としては日常的ではあっても、距離が隔たり、生活の必要性が少ないだけ、山地の森林は疎遠で、非日常的な環境である。山地を休息の場として親しむ人、山仕事をする人は、限られている。しかし、農村的生活から都市的生活への移行が、山仕事の必要を少なくする一方で、山を休息の場とする人を増大させることになる。また、山仕事の減少は、森林を放置することによって、山を休息の場として利用することを困難とさせる。放置され荒れた森林の場に行っても、閉鎖された林内環境における休息は期待はずれとなる。

 戦後までの農村生活は、山地の森林や草地が必要であり、利用されることによって維持されていた。都市住民も利用によって維持されていた山地の森林に出かけて、非日常的な休息を都市近郊で得られることが出来た。山道が手入れされて通じており、森林は育成され、開かれた草地や造林地から下方の眺望が開けていた。明るい森林からワラビ、ゼンマイやフキ、ウド、タラノメなどの山菜が取れた。

 山に入ろうとする行動の中に森林が知覚されるのだが、山に入ることが少なく、踏み分け道も途絶え、山に入ることも出来にくい。森林の知覚が、非日常的となり、休息の空間として森林を求めても、期待に外れることになる。風景によって見渡せる広大な山地と森林が利用されず、非日常の空間として広がっていることによって、日常の空間に閉鎖されていることになる。日常空間の閉鎖性から逃れて、自由な気持ちを回復することが休息となるのに、その休息の機会が制限されている。この制限を打破するために、森林の生産的利用による山への接近と森林環境の改善が、大きな契機である。
 山の恵み、山菜取りもこうした契機となり、燃料の採取の必要はさらに大きな契機となる。人々はこうした必要に目を輝かせて、山に入っていくことだろう。山は野獣の生息する非日常の空間から、親しみ深い空間へと転換する可能性は、皆無ではない。