地域景観の形成

はじめに
 景観が地表面の状態を表す地理学の概念として、現在はgoogle-earthで地球の景観を日常的に見出している。これに対して、身近な地域の景観は本来、日常的に知覚されているのに、地域全体を見渡す眺望の機会が少なくなると、行動の断片的な眺めに拡散している。
 こうした地域住民の景観改善のために成立した地域景観協議会は景観法以前からその実体が成立している。国、県、地域、市町村、地区と連携した景観形成の組織とその活動は、長野県では冬季オリンピックの時代から成立して、長年の活動を継続している。それ以前の活動は、ゴミの散乱などに対する対処が主であり、環境施策と関係したものであった。ダイオキシンなどの問題からゴミ焼却炉の整備、ゴミ収集の浸透などによって、改善が図られ、下水道の普及によって河川の美化も図られるようになった。景観改善は戸外広告物への規制を中心に進められてきたといえる。

景観問題への対処
 広告物の氾濫は景観の悪化ととらえられたわけであるが、戸外広告は視覚的な情報の提供であり、商業活動の過酷な競争の結果であろう。道路などの整備で交通量が増大し、沿道に商業施設が集中し、過当競争が生じ、経営規模の大きさに応じて、より大きな広告をより高く掲げ、目立つことを目指す。小さく地味な看板は目立たなくなる。そればかりではなく、景観が隠されてしまうことになる。広告自体も現代的な景観と言う人もいるが、浅はかな商業主義への迎合とも言える。そんな景観論議もなされていた。
 また、景観を視覚的に隠すものに、電線と電柱、または鉄塔がある。電線、電柱の場所を選ばぬ林立と配線によって、市街、農村部まで、景観が悪化する。市街地では無電柱化なども取り組まれるようになり、景観が改善された。しかし、無電柱化だけでなく、商店街としての素地の景観もまた問題であり、再開発による整備とともに、無電柱化も進められることが多いであろう。電線の地下埋設には費用がかかり、本来の美しい景観を有した農村部の無電柱化には御てあげの状態であろう。
 景観形成は、生活空間の構築の一部としてなされるものである点で、個々の建築申請の認可に景観への合意を含めることも考えられているが、不徹底であり、また、地区計画の面にも、限界がある。その限界の中で、住民協定、地区計画の検討などの努力がなされている。しかし、より以上に、地域産業の沈滞とともに、建物の老朽化が目立ち、改善の動きも限られた地区に留まり、区域による景観格差が増大しているのではないだろうか。
 産業の停滞が急速に顕在化して景観を荒廃へと変貌させている。そこでの生産活動と生活を中心に土地利用と建設によって生み出された景観は、その活力と存続の潜在力を失うことになる。それは、開発による景観破壊を抑制することになるが、住民生活の活力の沈滞に及んだ時に荒廃した景観が生まれる。産業の沈静化と生活の活力のバランスが重要であろう。

中心市街地の景観形成 松本の中心市
 中心市街の沈滞と空洞化は、各都市で深刻化しているが、松本市はこの空洞化をバネとして再開発を行なったといえる。重点的な中心市街の再開発は、市街の魅力が増大したことによって、人々が集中し、商店が活性化し、観光客までが集中するという、好循環を生み出し、近代的な都市景観と伝統的な街並みが相まった景観の調和を形成した。
 こうした中心市街の再生が生じなければ、人々は郊外大規模店で消費し、大都市の消費のために交通費をかけて出ていくだろう。松本市は逆に中心市街の再生によって、大都市から観光客を迎え入れ、郊外住民も含め、住民の町への自信が、市街の利用を増進させているのだろう。

農山村部の景観持続
 農林業の沈滞は、放置され過密となった林地、放置され、雑草の繁茂した耕作地に顕著である。農村部に進出した新しい住宅も放置した農地を転用した結果であろう。農林業には広範な流通以外の専業基盤として自家消費、地域自給の生産物利用が存在していたはずである。放置された農地を市民農園として活用し、林地の手入れを地区で行うことによって、住民の環境として改善し、利用するという活動も見いだせる。農林地の荒廃を改善する潜在力は地域住民の中に秘められている。農林業の活性化も重要であるが、地域住民の潜在力を引き出すことも重要である。
 農村とくに農地の景観は開放的であることが特徴である。それは、水田、畑と低い草本植物の栽培による景観であり、冬の農業の休閑期間には、裸地となることによるものである。季節により画然と変化し、耕作によって秩序づけらて、整然とした平面である。それは農作業によって保たれている。道路や水路沿い、農地を区画する畦畔の草地も定期的に刈られている。それらの景観は農作業の停滞で一挙に変化する。農地に草が茂り、視界を遮るようになると、閉鎖的な景観となる。また、藪は景観を無秩序なものに変える。こうした景観変化を防ぐには、農業の持続による他はないのであろう。
 農業の衰退は労働力の不足と農業生産品の価格に問題がある。労働力の不足を機械化で補い、機械導入のために圃場整備を行うことが方策として取られている。圃場整備による景観は従来の農村景観とは相違する点で、農地の持続ではあるが、景観の持続とは相違する。機械化によって農地で働く人影は少なく、畦畔の草の種類も変化する。また、農産物価格が海外から輸入によって低い点で、農業持続の方策として圃場整備が役立つかは不明である。農地所有者は委託耕作を行い、農地に関わらない農村住民を増加させ、農業離れを促進することも考えられ、新たな農業危機を招いているのではないだろうか?また、急傾斜の棚田の圃場整備は、災害の規模を拡大することにならないだろうか?こうした疑問を圃場整備に投げかけても、農地維持の方策として他に変わるものが見いだせない点で、認めないわけにいかなくなる。
 沿道景観美化のための花壇は、住民の大きな労力を有する。そして、並木などとともに開放的な農地景観を隠すことになる。農地景観が荒廃した場所では、美化の余裕は存在しないだろう。農地景観がきめ細かい管理で維持されている場所ほど、住民の美化の熱意で花壇などが作られるのかもしれない。農地景観とのバランスがとれた植物の種類や配植が考慮させなくては、花壇や並木ばかりを際立たせ、開放空間を閉鎖空間に変えることになる。緑化、美化の隠蔽効果はまた、開放した景観を損なうことにもなる例といえる。景観にとって美化、緑化は必要最小限のものである。

景観変化と景観形成
 景観の変化は人々の生産、生活の変化の表れであり、創造されるものではない。しかし、生活の豊かさの要因として景観の向上が作用する。逆説的に、景観の悪化は生活の貧困化を示しているということができる。地域の生活の変化を景観から意識することがあるが、その時、景観の発展と衰退が生活のどうした変化に対応しているのかを考慮することが大切ではないだろうか?そこから、生活変化を向上にに転化する可能性を見出すことができるといえる。松本市の空洞化から再開発への展開はこれを示す例ではないだろうか。
 一方、深刻な地域の衰退による景観変化は、生活主体にとって向上への転化がより容易でなくなると考えられる。ある程度、変化の推移を見守り、転化の契機を見出す必要がある。そうでなければ、景観向上の活動が無駄に終わる可能性があるのではないだろうか?