嵐の風景・平穏な風景

はじめに
 日常の風景に目を留めることは、イギリスの風景画家コンスタブルの風景画の追求が示し、フランスのバルビゾン派の画家達に影響を与えたことが指摘されている。風景画家としてターナーはコンスタブルによりも著名であったかもしれないが、何故、フランスの画家達に印象づけられなかったのだろうかと疑問に思っていた。ターナーは嵐や雪崩、火災などの激動する非日常の風景を主題とすることが多いようであり、コンスタブルは日常変わらぬ田園風景を主題とすることが多い。
 われわれ、非日常の嵐の情報に注目して、天空の様子を見上げている。すでに、台風が真近く迫っていることを天気予報で知り、危険を避ける方法を考えて、心配している。日常の風景は一変して不安をはらんでいるようにみえる。雲の動きは激しく、町の家々は一体となって嵐の前に怯えているようである。災害となれば、もっと悲惨であろう。もう、日常の平穏な風景はどこかに行っている。嵐の劇的な風景に対して、日常の風景が注目されないのは当然なのではないだろうか。
 自然の恩恵のもとに成立する田園の日常風景には、その自然の劇的な様子は隠され、人々の生活の様子が浮かび上がる。自然は当然のもののようにして、生活に勤しんでいる。生活に自然は関係ないように並列している。コンスタブルの天空の雲は、地上の人々の姿にただ影を投げかけているだけである。日々の生活は不変な自然とともに、永久に持続するかのようである。嵐の風景は突然の自然の激動に一瞬にして人々の生活が破壊され、終焉がくることを示している。人々は嵐と戦い、乗り越えなくてはならない。

嵐の風景の日常化
 日々の情報は、様々な危機と激動を伝える。危機の情報は、日常環境の防衛に人々を駆り立てる。日常も情報とともに危機に満ちていると意識される。社会自体が連動しており、情報はその激動を伝えるものとなって平穏な環境は失われたのかもしれない。平穏な環境に埋没することもできなくなり、主体的な対応が常に迫られる社会や環境へと変化していることに気づかされる。
 嵐は去って、平穏な夕方が戻ってきた。しかし、情報は新たな危機を伝えている。情報から離れ、平穏な日常に戻ることはできるのだろうか?嵐は去っただけで乗り越えたわけではない。

日常風景の風化
 繰り返される危機に日常はひとときの平穏に過ぎない。しかし、繰り返され、持続する日常生活を信じている。少年が大人となり、日常生活は深化してきたのであろうか?嵐の危機はただ過ぎただけに過ぎないとしたら、少年のころに見た夕方の風景は今も変わっていないはずだ。ただ、その風景を驚きを持って見なくなったのは確かである。明日もまた見れるからなのか。