草原の思い出

はじめに
 草原の思い出は大学に入った頃、両親と妹の4人で登った美ヶ原である。武石村の登山口までバスできて、そこから台上まで歩いて登った。暑い日、汗だらけになったが、台上は涼しい風が吹き抜け、休んでいる人々の仲間になった。はるかな見晴らしは空の広大さと白い雲ののどかさを伝えた。
 草原は例えようもない花々に満ちて、こんなに美しい場所は初めてであった。草の中を黒牛の小群がさまよい、近寄って草を食べて行った。人間の世界ではなく、牛たちの遊ぶ場所だったのである。石を積み上げた美しの搭は、広い草原の目印となり、時に流れる霧の中に姿を隠した。霧の中の草原に花々が際立って見えて、親しげに目に入った、ヤナギランだったか、クロユリもあったか、どんな花だったか覚えてはいないのだが。
 父は会社づとめで体力を無くし、息絶え絶えとなり、家で仕事をする母は涼しい風を喜んでいた。高校にはいったばかりの妹は母を助けて汗をぬぐって草原の花々を喜んでいた。家族が力を合わせて台上に到達した。それ以来、一緒に山に出かけることはなかったが、その思い出は忘れることはなかった。

草原の衰退
 信州に住みつき、美ケ原台上の下の三城牧場の県営林に県民の森を作る事業に関わった。三城から台上まで何度も折れ曲がる坂道に果てしない苦労をした。台上近くになると、笹原の中に背の低いカラマツ林が散在し、美しい草花は姿を消していた。以来、信州の草原のあちこちに行ったことがあるが、以前の美ヶ原のような草花に満ちた草原を見ることはなかった。
 草原は草刈場だったのか、放牧地であったのか、それとも荒廃地の回復途中にあったのか。草原自体が退行して生じた植生であるのだろう。退行させる草地利用や破壊の負荷が無くなった時に草原は森林へと遷移していくのであろう。草原の衰退は森林への遷移のためなのだろうか。

野草園
 草原を庭の中に維持しようと手入れを試みたことがある。草原を野草園のように育成しようとしたことがある。草原の主人はススキである。ススキの株の間には隙間ができ、そこに、様々な野草が共生している。野草園は株間を広く取り、そこをシバ草原としておく。シバからススキへの移行の形態をススキの繁茂を抑制して維持しておく。ちなみに、放牧はシバ草原を維持し、草刈場はススキ草原を維持するのであろう。野辺山の草原が思い出される。
 野草園は仙台の野草園が著名であり、本を見て、見に行ったことがある。ススキ草原に秋の七草が散りばめらた草原は人為的な維持は相応しくないのかもしれない。鉢の中に保護された七草に野趣は失われていた。単純な草刈で自然にうまれるススキ草原には敵わないようである。経ヶ岳自然植物園の草地の野草もどうなったのであろうか。

水田の土手
 水田の土手にはおいしい野草が豊富にあるようだった。春先に下をむいて水田をさまよう人を多く見かけた。一方、畦畔の草刈は農家の人の労働である。畦畔によって相違する種類の野草が見られるところと一様な草だけの区域がある。一様な草は牧草を主としており、食べられる野草は見出せない。豊富な種類の区域の畦畔は、美しい草花が抱負である。その草花を農家の人は刈残している。キスゲキツネノカミソリなどが刈払われた草地の中に際立って花を咲かせている。
 水田の畦畔の草地も踏みつけと草刈で維持され、シバ草原とススキ草原の間を行き来している。そして、破壊された畦畔は牧草地や帰化植物が繁茂する。私は草を花を摘みたいとは思わないが、農家の人の労働とともに変わる畦畔の草地の変化が整然とした水田と対比してとても、面白く、農村の景色を愛おしく思うのである。