風景から風致へ

はじめに
 日常使われている言葉には、意味がある。あるいは、日常生活を意味づけるために言語の体系が存在していることが予感される。予感されるというのは、誰もその体系を明らかにすることができないからだ。空気を見ようとしても見えないように、言葉の全貌を見ようとするのは間違っているかもしれない。言葉は意味を伝えるように、使えれば良いともいえる。こんな言葉の論議そのものが不毛なのかもしれない。
 ここで、風致という言葉も、単に「おもむき」としか意味づけられていない。その趣には、「心の動く方向」「なりゆき」「味わい」などとある。「面向く」「赴く」行為から来ているのであろう。「眺め」も「長目」の行為から来ている。それらの行為は日常行われている。ながめに面向き、赴くことは連続し、赴くことには、ながめが前提となるだろう。
 風景を眺め、眺めの場所に赴き、そこに趣となる風致を感じる。風景の中に眺められる要素の変化がおもむくままの自由を持っているなら、風景は趣のある眺めということになるだろう。自然の変化は、人工に制限されないで、自由である。固定的な人工景観が、自然の作用で、変化し、趣のある眺めに変化することによって、風景として知覚される。それは、眺める主体が自由に行動することを自覚していることによって共感する心でもあるだろう。自由な行動は赴きの行動であり、赴いた場所には趣を見出す。行くことが誘われる場所、その場所で得られる感じが「趣」であり、「風致」と言えるものであろう。
 以上の言葉の論議よりも、例えば、松尾芭蕉の旅と旅で詠まれた俳句の過程から、一連の行為の連鎖として、「風景」と「風致」の関係を読み解くことができるのかもしれない。これは、それぞれの日常の行為の中にも見出すことができるはずである。誰もが、自分の行為を振り返って、納得したとき、風致の言葉が意味として定義されることになるのであろう。こうした時に、芭蕉の俳句にも共感が生じ、日常の卑俗な感覚は文化的に高められた意識に転換していくのではないだろうか。

景観計画からの脱却
 造園はランドスケープアーキテクチャーの用語を通じて、景観計画と読み替えることができる。造園は自然環境を新たな環境に人工的に改造する技術と理解されるが、そのために、地形改造から地表面の処理、雨水処理、植栽の技術を総合させる。敷地規模が住宅宅地の範囲であれば、戸外居住環境の形成技術であり、居住場面の眺めを形成する。規模が大きく、自然に地形を大きく改変し、土木技術と一体となった場合に、多面的な眺めで構成される景観計画となる。
 景観計画では、自然景観を大きく改変し、人工的な景観を生み出すことになる。周囲が自然景観である場合、景観計画は違和感を生み出すものとなる。自然環境の改変をできるだけ縮小して、周囲の自然景観に連続性をもった景観計画も可能であり、また、その努力をますべきであるが、自然環境の透徹した理解に立って人工環境を生み出す技術が必要であるが、これは大変な努力が必要であり、一朝一夕にできるものではない。既存の景観を保全すれば、環境改変を制限しなければならない。新たな景観を建築するという範疇を超えることになる。一方、自然景観を超える新たな景観を人工的につくりだすことができるのかという疑問がある。周囲の自然環境との連続を考えるなら、創るよりも保全することが容易である。巨大な土木構造物が景観を構成する要素となりうるか、その成功例はそう多くはないのではないだろうか。